おそらくもスパイや戦争ものの小説、映画などを連想する方が多いのではないでしょうか。エンターテイメントとしては面白い分野ですが、ちょっと日常からは、かけ離れた世界です。でも実際には、私たちの身の回りにも暗号は溢れています。例えば情報通信の分野です。
インターネットなどで使われるSSLなどの暗号通信技術は、セキュリティーの面で重要な役割を果たしています。私たち自ら暗号にしたり、戻したり(復号)するわけではないので馴染みがありませんが、機器やソフトウェアが暗号化して通信することで、情報の漏えいや盗聴、改ざん、なりすましなどを防いでくれています。
家の中で、ノートパソコンなどをセキュリティ対策を施した無線LANで使っているなら、文字通り家の中を暗号が飛び交っていることになります。ほかにも、著作権を守るためデジタルメディアなどに複製防止のための暗号が組み込まれるなど、暗号は日常生活の中でも重要な技術として使われているわけです。
現在インターネットで広く普及しているRSA公開鍵方式などは、理屈として解読不可能ではありませんが、解読しようとすると、今のスーパーコンピューターをもってしても数億年以上かかるようになっているので、今のところ事実上不可能(計算量的安全性と言う)とされています。

しかし、現在研究が進められている量子コンピューターが実現すると、今のスーパーコンピューターで数千年かかる計算が、理論的に数十秒で可能になると言います。凄いことですが、同時に、これまでの方式の暗号の安全性も失われてしまうことになります。そこで登場するのが量子暗号です。
量子論は、相対性理論と共に現代物理学の柱となっているわけですが、なかなか直観的には理解しがたいものがあります。光は粒子であって、同時に波動でもあるというのは、ちょっとイメージしにくいのが実際ではないでしょうか。ましてやハイゼンベルグの不確定性原理と言われても、ピンと来ません。
粒子の運動量と位置を「同時に」正確には測ることが出来ないという話なのですが、量子暗号の理論は、情報を運ぶ光子を観測した時点で、その元の状態が変わってしまうという性質に基づいています。つまり、暗号を解読しようとしたら、そのことが分かってしまうのです。
例えて言うなら、こんな感じでしょうか。ベルトコンベアーの上を密閉された箱がたくさん流れているとします。その箱の中に情報がしまわれているのですが、その情報は印画紙(光が当たると色が変わる紙)に描かれています。途中で箱を手にとって、開けた瞬間に印画紙が感光してしまい、見たことがバレてしまうのです。
かと言って、箱を開けて、光を当てなければ何も見えません。つまり、暗号を途中で盗み見ようとすると、その性質が変わってしまうのですが、性質を変えずに見ることが出来ないのです。正確に言うとちょっと違うのですが、イメージとしては、そんな感じでしょうか。

なんでこんな話を長々と書いてきたかと言いますと、デンマークの自転車メーカー、
Biomega社のBostonという自転車を見ていて、この量子暗号が連想されたのです。情報の盗聴を防ぐ暗号ならぬ、自転車の盗難を防ぐ機構なのですが、とてもユニークです。
バイオメガのボストンは、フォールディングバイク、いわゆる折りたたみ自転車ですが、その構造に特徴があります。写真を見るとわかるように、ダウンチューブにあたる部分がワイヤーになっているのです。シートチューブの下部のフックに掛けられ、ヘッドチューブにつながる部分には鍵でロックするようになっています。

走行中は、このワイヤ―にもテンションがかかり、フレームの一部として機能しています。駐輪する時は、このワイヤーを下側のフックから外し、この部分をワイヤー錠のように使って、何か固定物に通してロックするわけです。言ってみれば、ワイヤー錠をフレームの一部として持ち歩いているようなものです。
ワイヤーは二重になっているので、ダウンチューブの2倍あり、十分使える長さです。ワイヤ―の片方はヘッドチューブに固定され、もう片方の先に鍵がかかるようになっています。自転車自体を折りたたむ時は、トップチュープの中間が折れる形になります。

もちろん、ある程度の強度のあるワイヤーと鍵ですが、工具などを使って壊したり、ワイヤーを切断される可能性がないわけではありません。しかし、犯人が盗もうとして鍵部分を壊したり、ワイヤーを切断するとダウンチューブがなくなってしまうことになり、走行できなくなってしまうのです。
つまり、盗もうとすると、自転車としては使えないものになってしまうということです。この盗難防止機構には、目からウロコが落ちる思いがする方もあるのではないでしょうか。言われてみれば簡単なことですが、よく考えたものです。優れた盗難防止法と言えるでしょう。
願わくば、犯人は盗む前に、それに気づいて欲しいところですが、もし壊した後に気づき、そのまま持ち去って修理に出そうとしても、所有者のみが持つ購入証明が無ければ修理できません。その辺が知られていないと盗まれる可能性があるのは弱点と言えば弱点ですが、持っていても使えないので発見される可能性は高まります。

今まで、いろいろなロックが開発されてきました。頑丈にすると重くなるなどの問題点がありました。しかし、絶対に壊されないロックをつくることは出来ず、言ってみれば、盗む時に手間がかかると、通行人などに怪しまれるだろうという抑止力によって、盗難を防止してきたわけです。
このバイオメガのボストンは、全く発想が違います。ワイヤーもそんなに太いとは言えないので、切断される可能性や錠前が壊される可能性は十分あります。しかし、壊すと自転車として使えなくなり、盗む意味が無くなってしまうわけです。量子暗号と、どこか似ている気がしませんか。
比較するのは少し乱暴かも知れませんが、暗号を盗聴しようとすると、その情報の中身が変わってしまい、盗聴に気づかれ、情報を送るために使われなくなって、盗聴する意味がなくなってしまうのと、考え方が似ています。対して、不可能ではないが手間がかかることで抑止していたロックも、従来の暗号方式を連想させます。

Biomega社の知名度は必ずしも高くありませんが、スポーツ用品メーカーとして有名なPUMA社とも提携しています。PUMA社の“
The PUMA Bike”も、このボストンがベースです。ちなみに、この自転車、畜光式の塗装になっており、夜は光って安全性を高めるようになっています。
バイオメガ社の自転車は、ボストンのほかにも、コペンハーゲンとか、ベルリン、アムステルダムといった都市の名前が付けられているのですが、残念ながらトーキョーやオーサカはありません。日本には、入ってきていないのかと思えば、私も過去に取り上げていたことに気づきました。(下の関連記事からもリンクしてあります。)

PUMA社の企画で限定販売ですが、日本の伝統工芸のコラボレートという意欲作、なんと九谷焼の自転車です。見れば、ボストンと同じ形です。その時は、こんな盗難防止機構があるとは気づきませんでしたが、この機構については、日本ではどこも取り上げていないようなので、あまり知られていないのかも知れません。
日本に輸入されるメーカーも含め、全ての日本の自転車にこの方式を取り入れられたら、日本の自転車を取り巻く環境は大きく変わるでしょう。誰も自転車なんか盗まなくなり、そのぶん非行や犯罪は減ります。放置自転車も大きく減る可能性があります。もちろん、実現は困難ですが、ちょっと魅力的な未来図です。
デンマークの自転車は、これまでも“trioBike”や“nihola”など取り上げてきましたが、どれもユニークです。北欧も広く見ればヨーロッパですが、欧州の有名自転車ブランドとは一味も二味も違います。デザインのみならず、その設計思想にも、もっと注目すべきかも知れません。
大型連休スタートですね。飛び石なので、長い旅行はせずに、ちょっと自転車で出かけようなんて人も多いかも知れません。そんな時に限って盗難..なんてことのないように、気をつけたいものです。
関連記事
自転車の価格と比例するもの
九谷焼の自転車として取り上げたのもバイオメガ製だった。
子供というお客を運ぶカタチ
こちらのtrioBikeもデンマーク製3輪だが、とてもユニーク。
3輪にすると広がる使いみち
Nihola社もデンマークの会社だが、ちょっと設計思想が違う。
盗難を防ぐためのアイディア
自転車の盗難を防ぐための工夫も、いろいろと考えられる。