これは、来年5月に始まる裁判員制度で、裁判員候補者名簿に登録される人の割合の全国平均です。もちろん地域でばらつきがあり、千葉県では220分の1、秋田県は790分の1などとなっています。これを小さい確率と思うでしょうか。充分可能性があると感じるでしょうか。
来年5月21日以降、この名簿に掲載された人の中から50〜100人程度が事件ごとに裁判所に呼び出されることになります。この名簿は毎年つくられますので、2年目以降に選ばれる可能性も当然あります。滅多に当たらないだろうと思っていても、将来、現実に裁判員として法廷に立つかも知れません。
この裁判員制度、司法制度改革の一環として国民が司法参加し、市民が持つ日常感覚や常識を裁判に反映させ、司法を身近でわかりやすいものにするために定められました。先進諸国で市民が裁判に参加しないのは日本だけということもあって、世界の標準に合わせたいという意図もあったようです。
今までの裁判官による裁判では、有罪になるケースがなんと99.9%と言います。当然、検察が確実に有罪に出来る事件だけを起訴しているわけですが、その判断を下す検察に裁かれている感もあります。江戸時代に罪人が代官の前の「お白州」に引き立てられ、刑を言い渡されるようだと言う人もいますが、確かに問題です。
検事と裁判官がチームとなり何年間か共に事件を担当するシステムになっているので、そこには慣れあいが発生すると言います。裁判官は、もし無罪判決でも出して検察の起訴をひっくり返しでもしたら、現実問題として自分の出世にかかわります。裁判官の資質にも疑問がありますが、こうした制度面にも問題は多いと言えるでしょう。
確かテレビによく出ている丸山弁護士の話だったと思いますが、実際にこんな事例があったそうです。公園で、子供の相手をして遊んでやっていた若者が、プロレス技をまねて子供にヘッドロックをかけていたところ、そんな技など知らない母親たちがそれを見て大騒ぎとなり、警察を呼ぶ事態に発展しました。
凶行を主張する母親に押しまくられた検察は、結局殺人未遂で起訴したと言うのです。さすがに裁判官も大いに疑問に思ったらしいのですが、検察が起訴した容疑を覆すわけにもいかず、実際に殺人未遂になってしまったと言います。もちろん、そんな裁判官ばかりではないと思いますが、今の裁判には、かなり問題のある場合もあるようです。
実際に冤罪事件も起きていますし、逆に量刑が世間一般の感覚とずれていることもあるでしょう。国の主権者たる国民が、もっと司法に参加して、司法をよりよいものにしていくのも有意義なことだと思います。今の司法制度を改革しようと活動してきた人たちの努力については評価するにやぶさかではありません。
そうした人たちにとって、この裁判員制度の導入は画期的なことであり、ここに至るまでの尽力はたいへんなものだったのだろうと推察します。ただ、小泉政権当時の規制緩和、官から民へという流れの中であっさりと決まってしまい、議論が尽くされていないという指摘は少なくありません。
何より問題なのは、裁判員が量刑の判断をしなければならない点でしょう。しかも、裁判員制度は重大な事件にのみ関わりますから、死刑判決を下す必要も出てくるに違いありません。世界各国で制度が違うので単純には比較できませんが、これは欧米にもない点だと言います。
自分が直接手を下すわけではありませんが、人ひとりを結果として殺すことになるわけです。相応の罪状があったとしても、この事実の重さに耐えられるでしょうか。懲役刑でも、被告人の人生にとっては非常に大きな影響を与える判断です。有罪か無罪かも含め、裁判員にも相当大きな精神的負担を与えることは間違いありません。
また、裁判員は匿名ですが、法廷で顔はさらされるので、調べればすぐ身元はわかるでしょう。特に最近はネットで噂がすぐ広がり、個人情報が暴露されます。関心の高い事件で重大な判断を下したり、または下さなかったために、非難の的となる可能性もないとは言えません。嫌がらせなど有形無形の被害を受ける危険性も充分考えられます。
裁判官だって同じリスクを負っていると言えますが、裁判員と同じではないでしょう。今まで、裁判官の判決に対する不満で嫌がらせが起きなかったとしても、昨今の状況からすると、一般市民の裁判員には世間の集中攻撃が起きてもおかしくない気がします。官舎に住んで保護されている裁判官と違い、裁判員は保護されていません。
裁判官は、わざわざ職業として裁判官を選んだわけです。仮にリスクがあったとしても覚悟の上でしょう。どうしてもイヤなら職を辞すればいいことです。しかし、裁判員は原則として拒否する自由すら与えられていません。同じ土俵の上で比較することには無理があります。
裁判員が自らの意志に反して、クジ引きで強制されることについては、憲法違反だとする声もあります。日本国憲法第18条には、「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」とありますが、意に反する苦役と言えなくもありません。
太平洋戦争当時の召集令状、いわゆる赤紙のようだと言う人もいます。国による強制徴用であり、国の側で不適格とされた者以外、拒否権も拒否する制度もありません。違反すれば罰則まであります。場合によっては人の命を奪う行為を強制させられる点も似ています。まさしく徴兵制のようなものです。
意志に反して任命され、さらに裁判の過程で仕方なく知ることとなった秘密については、終世の守秘義務まで課せられます。残酷な写真とか証拠を見て精神的なショックを受けることだってあるでしょう。それがトラウマとなっても、誰にも言えず、一生心の中にしまって生きていかなければなりません。
一方、被告人にも制度の拒否権はありません。若いからダメとは言いませんが、無作為で抽出された20歳そこそこの人に裁かれたいと思うでしょうか。自分が20歳くらいだった頃のことを考えても、そこに思慮と分別と良識が期待できるか疑問です。無責任な判断を下されても、刑に服さなくてはなりません。
そのほか、3日以上拘束されることによる仕事などへの影響や、期日が区切られている中での結審などの制度的な問題、いかにも簡単かのように広報されている点など、問題点を挙げればキリがないと思います。世論調査などを見ても、義務なら仕方がないという人も含め、大半の国民が参加したがっていないのは間違いありません。
長い間、陪審員制度できた欧米とは歴史や伝統が違います。背景に開拓時代や植民地の統治などの理由があるわけで、日本人には馴染みがないのも仕方ありません。それを無理やり裁判に参加させようというのも問題です。先進国の中で日本だけ市民の裁判への参加が無いと言っても、国の成り立ちも伝統も国民感情も大いに違うはずです。
一般の人にも法的な知識が十分にあるとは思えません。推定無罪などの原則を知らない人もいるでしょう。無罪判決なんて生涯で一度も下したことのない裁判官が大勢いるのも問題だとは思いますが、法の知識どころか裁判のやり方すら知らない人が裁判員になって判決を下すのも問題ではないでしょうか。
裁判員制度の導入を契機にして、日本の刑事裁判を変えていく必要があるのは確かなのだろうと思います。4年前にあっさり法案を通してしまった国会議員にも責任があると思いますが、これだけ問題のある制度を見切り発車で、しかもいきなり実行しようとしているのは強引過ぎないでしょうか。
最近、国会議員の中にもこのことに言及する人がいますが、少なくとも延期にしたらどうなのでしょう。政治がからみ、国が訴えられるような事件が裁判員制度の対象になっていないという問題はひとまず置くとしても、重大事件から入るのではなく、痴漢冤罪事件のような、もっと生活に身近なものから入っていく手もあるでしょう。
関係者の中には、このままでは絶対に失敗すると断言している人もいますが、裁判官ですら判決をためらうような死刑の判断を裁判員に求めるのは、いかにも無理があります。市民の感覚を法廷に取り入れると言っても、法律に無知なあまりの意見まで反映してしまうことに問題はないでしょうか。
こうした裁判員制度の問題点について、あまり周知されているとは言えないのも問題です。この制度に対する国民の意見を国が調査した結果なども読んでみましたが、反対する声が圧倒的です。そして、賛成する意見には、あまりよく知らないか、深く考えていないか、よく理解していないとしか思えない理由が多く見られます。
確かに市民感覚とかけ離れた判決はあるでしょう。でも、だからと言って日本の国民は、裁判に参加させろなんて思っていないはずです。研修などの方法で、裁判官の資質を向上させてもらえばいいのではないでしょうか。あるいは警察の取り調べとか、検察の起訴の仕組みなどを見直すのではダメなのでしょうか。
日本の裁判は時間がかかりすぎると感じている人は多いですが、他の国と比べて必ずしも長くないそうです。長期化する裁判は一部なのです。国民に親しみやすくするにも、もっと違う方法もあるはずです。判決にまでかかわりたいとは思っていないのが本音だと思います。
私の素人考えですが、やるなら、せめて裁判員はやめて、裁判判定員にしたらどうでしょう。つまり、裁判の審理には参加しますが、判決は今まで通り裁判官が下し、判定員は、その判決と量刑、及び裁判の進め方が妥当だと思うかどうかだけ判断するのです。
例えて言うなら、大相撲で土俵下から見守る「勝負審判」の親方達ようなものです。今まで通り「行司」である裁判官が取り組みを裁きますが、「物言い」をつけることが出来るわけです。行司差し違えで判決を覆す権限まで与えるかどうかは議論の余地があると思いますが、少なくとも行司は正しい軍配を上げようと努力するでしょう。
自分の出世に響くからと、検察側と慣れあいになることなく、裁判官が検察側と弁護側を公平に見て裁判を進めようと心掛させるため、裁判官に何らかの処分を与えるくらいの権限は必要です。もちろん検察が正しくないとは言いませんが、ずさんな起訴や慣れあいの判決により、冤罪などが生まれるのは防ぐべきです。
そうすれば「物言い」がつかないよう、裁判官は努力するでしょうし、国民も自ら裁くという重荷を背負わずに済みます。物言いがついたら、関係者も交えて協議することにすれば、そんなに突拍子のないことにもならないでしょう。普通に裁判が進む限り、勝負審判の出る幕はありません。顔をさらす必要すらないかも知れません。
素人が行司を務めるのは荷が重いですが、勝負審判なら、やれと言われれば出来そうです。(日本相撲協会の審判部所属の親方衆には甚だ失礼な例えですが、あくまでも比喩ということで。)仮に裁判員制度に進むにしても、最初はオブザーバー程度から始めるのがいいのではないでしょうか。
来年の実施が迫って来て、徐々に話題にもなりつつありますが、まだまだ関心のない人が大勢います。国民は、自分がなる可能性もあるのですから、もっと関心を持つ必要があるでしょう。でも、せっかくの改革を中止しろとは言いませんが、出来れば延期するなどして、もう少し国民的な議論を経ての実施にしてほしいと思います。
最終的に国民の裁判への参加を取り入れるとしても、今のままではあまりに拙速です。司法改革の必要性も理解しますが、導入を急ぐ結果、誰も望まない制度になってしまった感があります。国会で既に決まったことではあっても、勇気をもって見直すべきではないでしょうか。
本人はこれも英断と言いたいんでしょうけど、安倍前首相に続く福田首相の突然の辞任、びっくりしますね。まだ一年も経っていません。記者会見でいろいろ言ってましだけど、政権放り出しと言われても仕方ないでしょう。驚きました。
関連記事
いざ使う時に悔やんでも遅い
もしもの時の為、これも考え直しておいた方がいいのではないか。
嘘つきと泥棒に盗まれるもの
最近増えているが、こちらも見直して強化してもらいたいものだ。