今から2年半と少し前、2007年3月26日はフジテレビがライブドアに対し、約345億円の損害賠償を求めて東京地裁に提訴した日です。洋菓子の不二家が、期限切れ材料による菓子製造発覚を受けて、山崎製パンの事実上の傘下になることを発表した日でもあります。そう言えば、そんなこともありました。
同じ年には一連の食品偽装事件が次々と発生しましたが、ミートポープによる食肉偽装も、赤福餅の消費期限偽装も、石屋製菓の白い恋人の賞味期限偽装も、船場吉兆による客の食べ残し再利用も、まだ発覚するより前のことですから、ずいぶん前のことのような気がします。
この日から約2年半もの間、逃亡生活を送っていたのが、イギリス人の女性語学講師、リンゼイ・アン・ホーカーさん(当時22歳)の遺体が見つかった事件で、死体遺棄容疑で指名手配されていた市橋達也容疑者(30)です。ご存じのように今月10日、大阪で逮捕されました。
今月になって、逃亡中に顔の整形手術を受けていたことが明らかになって再び関心が高まり、各メディアでも大きく報道されました。これをきっかけに、逃亡中の消息が判明しはじめ、急転直下、逮捕に至った感があります。こうした展開からも、マスコミ報道が過熱気味になりました。
もちろん、マスコミで大きく報道されたことが逮捕につながった部分も、間違いなくあると思います。ただ、逮捕後の移送まで、ヘリコプターを飛ばして生中継する必要があるのか疑問に感じたのは私だけではないでしょう。確かに、市民の関心が高かったので報道が過熱したという面はあると思います。
ただ逆に、こうしてマスコミで大々的に報道されたからこそ、同容疑者に対する関心が高まった部分もあるのは間違いありません。それが高じて今、なんとインターネット上のSNSなどでは、市橋容疑者のファンを自称する人々のコミュニティーが出来ているというから驚きます。
それも一つや二つではなく何十と乱立状態で、参加者が2千人を超えるものまであると言います。もちろん、この状態に対し、不謹慎極まりないとする批判も殺到しており、大きな騒ぎとなっています。何度も来日して協力を訴え、容疑者逮捕の連絡に涙を流したと言われるリンゼイさんのご両親が聞いたらどう思うでしょう。
冷静に考えると、まだ容疑者の段階です。整形手術をしてまで2年半も逃亡するくらいでから、その犯行が強く疑われるものの、事実が明らかになったわけではありません。無罪を信じる人や支援者の人がいてもおかしくはないわけですが、この数を見ても普通でないでしょう。
同容疑者を「イケメン、かっこいい」とする女性たち、市橋ギャルとか親衛隊などと呼ばれる人たちが、「社会復帰を願う」とか、「本当は、すごく良い人では」、「無罪を信じています」などと書き込んでいると言います。マスコミ報道だけで、事件と何ら関わりのない人の発言とするなら不謹慎で無責任の誹りは免れないでしょう。
ほかにも殺人死体遺棄事件は少なくありませんが、なぜこの事件で死体遺棄の容疑者が人気になるのか、このような現象を呼んでいるのか、社会学者でもない身にわかるわけがありません。ただ、この騒ぎ、それ自体に対して、面白半分に楽しんでいるようにも見えます。
あまりにマスコミで取り上げられているので、それに反応して有名人に対するように騒いで、その不謹慎さに盛り上がるといった、いびつな感情が働いているように思えてなりません。不謹慎だろうがなんだろうが、ネット上の「祭り」として面白ければそれでいいという感覚もあるような気がします。
このあたりは、私の勝手な推測ですので正しいかどうかはわかりません。しかし、ネット上での現象ということを別としても、ある種の世相を反映している面があるような気がします。つまり、以前なら考えられなかったようなことであっても、何をしようと個人の勝手だと考える人が増えているのではないでしょうか。
公序良俗に反しようと、社会通念に照らして外れた行いであろうと、自分がやりたい行動であれば関係ないとする考え方です。例えそれが常識外れで、他人から眉をひそめられるようなことであっても、それを行うことに躊躇はなく、人がどう思おうと気にしない、あるいは気にならないという思考回路と言えばいいでしょうか。
人に怪我を負わせるかも知れないのに、自転車に乗りながらケータイを見る、イヤフォンで音楽を聴きながら走行するといった人が増えているのと、ある意味で同じような気がしてなりません。もちろん、電車の入口の床に座るとか、電車の中で化粧をしたり飲食をしたりするのとも共通する部分です。
少し前なら、人に迷惑をかけてはいけないと教わりました。他人に迷惑や不快感を与える行動は注意されましたし、公共の場所や公衆の面前で、公序良俗に反したことをやるのは、恥ずかしいことだったはずです。でも今は、自分のしたいことをして、周囲の人がどう思おうが関係ない、まさに傍若無人のありさまです。
ケータイでメールを打ちながら自転車に乗ろうが、人にケガをさせない限り個人の勝手でしょうという態度です。誰かが注意しようものなら逆ギレしたりします。殺人死体遺棄事件の容疑者のコミュニティサイトが遺族の神経を逆なでして不謹慎であろうが、海外にまで反響を呼ぼうが、盛り上がるのは個人の勝手ということなのでしょう。
一方、逮捕につながる通報をした、容疑者が住み込みで勤務していた大阪の建設会社では、取引先から契約を解除される事態が相次いでいるそうです。整形後の写真を見て気づき、社会人の当然の義務として通報したわけですが、結果としてそれがアダとなっています。通報は後悔していないそうですが、誠に気の毒な事態です。
社員の身元さえ調査できていない会社とは取引できない、といった理由で取引先から契約解除されたり、永久に出入り禁止だと批難する会社まであると言います。一部には、よくやったと応援してくれる取引先もあるそうですが、当然のことをしたまでなのに、それを理由に取引禁止、出入り禁止とはひどい話です。
これには、ネット上でも同情の声が多くあがっています。同容疑者が契約社員だったのか、アルバイトだったのかよく知りませんが、作業員の身元なんていちいち調査をしないのが普通だというのが一般的な意見のようです。確かにアルバイトをするのに、履歴書は出しても、普通、住民票や戸籍謄本までは出さないでしょう。
雪印食品の食肉偽装を告発したため、取引先から干されて休業に追い込まれた倉庫会社、西宮冷蔵の話を思い出します。大阪駅前で社長自らカンパを集め、全国からの励ましと支援で再起し、営業を再開したストーリーは、NHKや民放でも繰り返しドキュメンタリーとして放映されましたので、ご存じの方は多いと思います。
西宮冷蔵の場合は取引先を告発したわけですが、今回の大阪の建設会社の場合、自分のところの元従業員に似ていると通報しただけです。従業員管理に問題がある会社という言い分は、業界の常識から言っても酷であり、正義を行った会社に対する仕打ちとしては、あまりに感情的でひどすぎではないでしょうか。
この建設会社、名前は明らかにされていませんが、テレビでもさんざん放映されていましたから、取引先はすぐにわかったのでしょう。その意味でマスコミにも一部責任があると言えます。捜査情報が漏れ、結果として善意の通報者に被害を与えた警察にも問題があるのではないでしょうか。
こういう問題が起こった場合、むしろ取引を停止した取引先のほうを全国に公表したらどうでしょう。今回の場合、元請けの建設会社が一般消費者を相手にしていなければ、直接売上減などにはならないとしても、株価下落や、その会社への投資などに影響し、一定の社会的制裁になる可能性があります。
食品偽装などの公益通報者を保護するため、公益通報者保護法が施行されましたが、今回の場合も、犯罪容疑者の逮捕という公益の通報者という点では同じです。このようなことが繰り返され、犯罪容疑者の情報を通報する人がいなくなれば、それは社会全体にとって大きな不利益になるはずです。
今回の建設会社の取引先のような、理不尽なことをする会社には、是正勧告と社名公表くらいのペナルティがあってもいいのではないかと思います。西宮冷蔵のケースだって、やましいところがなければ取引を停止する必要はないはずです。社会のため応援するくらいの公益性が求められるのが企業というものでしょう。
食品偽装やリコール隠し、最近話題になっているJR西日本など、企業の不祥事は後を絶ちません。例え、きわめて高い公共性を求められる企業であっても、自社の利益を追求する運命共同体となってしまい、顧客の健康や生命より、自社の利益や存続を優先するようになることは、これまでの例を見ても明らかです。
今回の市橋容疑者の事件、はからずも現代の世相を色濃く反映する形になったような気がします。個人にしても、企業などの組織にしても、自分だけ良ければいいという傾向が強くなっていると感じる人は多いでしょう。嘆かわしいばかりでなく、こうした傾向は、社会のコストも高めていくに違いありません。
今まで、市民や企業のモラルで保たれていた部分が、警察や司法、または行政による監視や罰則などを必要とするようになるだけでもコスト高です。モラルのない行動から市民の安全を守るために、過剰な安全装置や予防措置が必要になったりもするはずです。
もちろん個人の自由は最大限尊重されるべきだと思います。しかし、最近は個人の権利ばかりを主張し、自分の好きなことをやって何が悪いと公共の福祉を顧みない人が増えた結果、昔なら当事者のモラルや周りの人の視線によって防がれ、誰かが注意するだけで済んでいた話が、公共の秩序維持に大きなコストが必要になりつつあります。
人間は社会でしか生きられません。自分は社会の世話になっていないと考える人でも、例えば顧客がいなくなり、収入がなくなれば困ります。自転車だって道路がなければ乗れません。犯罪の抑止や、消費者の安全、社会の秩序をみんなで支えているからこそ社会が保たれ、その社会の一員だからこそ生きていけるわけです。
このことを理解せずに公共の福祉を顧みない行動を続けるならば、何らかの形で不利益をこうむることになるに違いありません。周囲の人も見ています。極端な話、法律を犯してその自由が拘束されれば、すぐそのことが理解できるでしょう。もちろん市橋容疑者は、それを切実に感じていたはずです。
同容疑者は、逮捕されてから食事を口にしていないと言います。そのことがまた話題を呼んでいます。なぜ絶食するのか理解に苦しみますが、整形してまで逃げる執念を見せた容疑者です。栄養失調になって入院となれば、警察の留置場よりは脱走のチャンスがあると考えているのではないかという説に一番説得力がある気がします。
2年半逃亡生活を続けながら、逮捕された場合のことを考えない日は無かったに違いありません。当然ながら、その時にどうするかも考えていたことでしょう。過去にも絶食して心神耗弱状態となって精神鑑定になったケースもありますから、いろいろ研究していたのかも知れません。
ちなみに、警視庁は今回の事件を受けて、今後、美容整形外科に指名手配容疑者の写真を配り、似た人物の来院時に通報を呼びかける対策を検討していると言います。過去にも時効寸前で逮捕された福田和子受刑者の例もありますし、誰でも考えつく方法です。今までやっていなかったことに、むしろ驚きます。
確かにさまざまな面があって、この事件が話題になるのも無理はありません。逮捕後の現象が波紋を広げているのも特徴的な気がします。事件そのものばかりではなく、この事件で垣間見えることになった社会の病理も教訓として、今後に生かす方法について考えてみたいものです。
良識を疑われ、白い目で見られても平気なんでしょうね、参加者は。面白ければ何でもいいと言うのでは、品もないし、むしろみっともない気がするんですが..。
関連記事
少しでも無駄にしないために
2007年は食品偽装をはじめ企業の不祥事が相次いだ年だった。
嘘つきと泥棒に盗まれるもの
消費者を騙すような会社をのさばらせていては社会の損失になる。
消費者を欺いてタダで済むか
有名な大企業であっても偽装をしてバレたらミスと開き直っている。