この問いに応えるのは容易ではありません。科学者ならば、ある程度自分の専門分野の将来を見通すことが出来るかも知れませんが、いろいろな分野の進歩がどう作用し、社会全体にどのような影響を及ぼしていくかまで予測するのは困難です。もちろん、変わっていくのは科学技術だけではありません。
社会は今後ますますグローバル化し、科学技術の進歩だけでなく、政治や経済、文化や流行、宗教や思想、天変地異に至るまで、ありとあらゆる事柄に左右され、互いに影響しあいながら変わっていくに違いありません。それらを総合的に予想するのは不可能です。

ならば、今より社会の変化のスピードが遅かったとは言え、今から百年前の人たちが、百年後を想像出来なかったのも無理はありません。何かの計画を立てるにしても、予測もつかない未来のことまで考慮出来ない以上、その当時に良かれと思って行われたことでも、今となっては間違いだったということもあるはずです。
今から百年前と言うと、ちょうど有名なT型フォードが発売された頃です。この量産型の自家用車の大ヒットが、その後のモータリゼーションのきっかけになったと言われています。アメリカでは第一次大戦後、1920年代ころから本格的なモータリゼーションが始まりました。
クルマが産業から人々の生活まで大きく変え、たくさんの恩恵をもたらした一方で、交通事故死者を急増させ、特に都市部では深刻な環境問題をひき起こしました。クルマそのものの功罪は置くとしても、百年近く前からクルマに合わせてきた都市政策が、果たして正しかったかどうかには疑問の余地があります。
前回、アメリカ中心とも言うべきニューヨークで、クルマ中心の道路政策が変わりつつあると書きました。市内各所で車道をつぶし、歩行者のためのスペースを増やしています。それ以外にも、市民の安全に配慮して道路幅を狭めたり、交差点の形状を見直すなど、歩行者を重視した道路政策がとられ始めています。

そして、その背景には市民の意識の変化があると書きました。ただ、アメリカは基本的にクルマ社会です。アメリカ人はごく近い所しか歩かず、短い距離でもタクシーに乗るのは当たり前とされています。そんな人たちが、クルマの利便性を阻害するような政策を支持するとは容易に信じられないかも知れません。
もちろん、いろいろな考え方の人がいますし、皆がみな支持しているわけではありません。しかし、クルマ社会のアメリカでさえ、クルマを中心に据えてきた都市計画や交通政策が誤りだったのではないかという疑問、あるいは反省が語られるようになってきているようです。
その根底にあるのは、クルマばかりを優先してきたのが正しかったのか、今までのやり方が人々を幸せにしてきたのだろうかという素朴な問いかけです。こうした市民の意識の変化の一例が“
Streetfilms.Org”というサイトの動画で見ることが出来ます。題名は「大きな誤りを修復する;クルマ中心の発展」です。
この動画によれば、パークアベニューはマンハッタンを南北に貫く大きな通りですが、この「公園通り」は、もともと本当の公園だったそうです。1920年代後半から30年代にかけて、公園がクルマ用の道路になってしまったと言うのです。こうした車道建設は、ニューヨーク全体で起こりました。
市民にとっての憩いの場、ニューヨークのリビングルームだった場所、市民が歩き、遊び、交流していた場所は、すべてクルマに奪われてしまったと言います。30年代から40年代には、大々的な道路の拡幅が行われ、それに反対する熱い戦いはあったものの、結局さらに居住地の一部まで奪われることになりました。
これは、ニューヨークがとった間違った方法だったと主張しています。ある程度の道路は必要ですし、昔からの道路を舗装する必要はあったとしても、ニューヨーク市民は、自分たちの持っている公共の場の全てをクルマに引き渡す必要は無かったのだと指摘しています。

今ニューヨークが、それを取り戻そうとしていることや、自転車レーンのネットワークが拡大されていることは、とてもエキサイティングだと語っています。この期に及んでも、クルマ中心の都市計画を続けなければならないと考えている都市計画のプランナーや建築家を捜すことは、相当に困難なはずだと断言しています。
実際問題として、市民はクルマから主役の座を取り戻さなければならないことを理解しなければなりません。そして、そのことは既にもう人々にも浸透しつつあるはずだとしています。ニューヨーク市民はニューヨークを変える必要があり、その行方を世界中の人が見ているのだと呼びかけています。
市民にはそのチャンスがあり、それはクルマ中心の都市開発を先導した国の、世界の他の国々に対する責任でもあると続けます。都市の生活者、居住している人たちがハッピーであるために、適切な移動手段を選択しなければなりません。幸い徒歩や自転車だけでなく、バスや地下鉄など公共交通も揃っています。
この動画では、タイムズスクエアやそのほかの公的な広場の導入や、自転車レーンのネットワークといった政策が、ニューヨークの街や道路の、よりよい方向を示しているとの確信を述べています。そして、そのことに多くの人が、既に気づき始めているとも語っています。
こちらは市民の活動の例です。「クルマのない公園劇場」と銘打った寸劇を多くの人の前で披露することで、クルマ中心の道路政策の不合理さをアピールしています。クルマを模したかぶり物をつけたクルマ中心派は、公園を通り抜けさせろ、さらに近道を使わせろと言います。
私はクルマを買ったんだ、乗りたいんだ、クルマが好きなんだと主張します。これに対して、市民は地下鉄や電車、バスを使うことが出来るし、そうすることができない理由がないと言い返します。ブルックリン地区だけでも総延長2千4百ロを超える道路があるのに、これ以上公園を道路にする必要がないとも答えます。
クルマの弊害や危険性も主張しています。こんな寸劇を通して、これ以上クルマを優先すべきでないと訴えているわけです。そして最後には地元の議員が登場し、この活動に対して感謝と支持を表明しています。彼らは、このキャンペーンを12年続けているそうです。
子供たちも、“Go Green!”と叫んでいます。何百人もの子供と親たちが行進し、クルマ中心の道路政策に異議を唱えています。子供たちの声には、大きな訴求力があります。次世代の子供たちのためにも、持続可能な都市開発を行わなければならないことを訴えているわけです。
都市計画の専門家による、住みよい街と道路の関係についての理論を、サンフランシスコの実際の道路を使って検証した実験についての動画もあります。交通量の違う3本の道路を使って、住民のコミュニティについての実験を行っています。これも同サイトの「大きな誤りを修復する」動画の一つです。

これは、20世紀の初期に何がいけなかったのか、都市がいつからクルマの「言いなり」になっていったのか、そして、そうした都市政策が、今日どのように私たちの生活や生命に影響を及ぼし続けているかを明らかにしようとする一連の動画の一つです。
クルマで便利に移動出来れば住みやすいわけではありません。注意すべきは、いかにクルマの移動ニーズを満たすか、ということより、いかに住みやすい街にするために道路はあるべきかという視点に立つべきだということです。道路の整備が、必ずしも住民の住みやすさにつながるとは限りません。
日本でも行われてきた道路偏重の都市政策は、経済合理性に基づいた当時の判断だったわけです。しかし、それが交通事故の増加を招き、人々の命が危険にさらされました。排気ガスや騒音による公害をもたらしたのも否定できません。都市のヒートアイランド現象も助長しています。
クルマが大量に都市に流入し、それが渋滞を呼んで更なる道路が必要となる悪循環も生んでいます。道路によって都市が郊外へ広がり、中心市街地の空洞化、いわゆるドーナツ化現象やシャッター通りなども生みました。交通弱者とされる人たちは買い物難民となって、日々の食料さえ調達できない深刻な事態もおきています。

クルマが便利になり、その利用が拡大することで、公共交通の鉄道やバスが維持できなくなるところもあります。それ以前に環境に優しいとされる路面電車は多くの街で廃止に追い込まれました。道路整備が公共交通を駆逐する形となって、交通弱者を生んでいる側面も否定できません。
高齢化社会の進展で、高齢者がクルマを運転することによる弊害も起きています。道路の増加で維持管理費が拡大し、居住地域が広がることで、あらゆる公共サービスのコストも増加しています。このことが自治体の財政の悪化を深刻なものにしています。
クルマは人々の移動をラクにし、物流を促進し、経済成長に寄与してきました。しかし、一方で人々を運動不足にし、生活習慣病を助長したとも言われています。火災の延焼を防ぐなどの防災上の効果がありますが、一方で動画にもあったように、都市の住民コミュニティを分断し、住みやすさを低下させる面もあります。
車道を無くせと言うのではありません。0か100かの議論ではないでしょう。しかし、あまりにクルマ優先の道路政策、都市計画ではなかったでしょうか。100年後に正しいのは何か予測するのは困難ですが、100年前からの政策について、その正しさを疑ってみるべき時期に来ているような気がします。

COP16が終わりました。15に比べて盛り上がりに欠けましたね。
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