東日本大震災は戦後最悪の自然災害となっています。
ガソリンないなら…自転車が売れてます! 東日本大震災
東日本大震災は18日で発生から1週間を迎える。警察庁は17日、死者は12都道県で5450人以上、行方不明者は6県で9500人以上と発表。死亡・不明は計1万4950人超となった。一方、被災地では深刻なガソリン不足で、自転車の利用者が急増している。
被災地で自転車が飛ぶように売れている。
仙台市青葉区の自転車店「シクロヤマグチ」は、地震翌日の12日に約60台を販売、通常の12倍となった。売れ筋は通勤用の軽快車。ほこりをかぶっていた自転車の修理に訪れる人も増えた。
購入者は、地震後連絡が取れなくなった家族を捜すためという男性や、出張中に被災して福島市の自宅に帰るためというサラリーマンなど、それぞれの事情をうかがわせる。山口哲男社長によると、新車の入荷は注文に追いつかず修理に追われる毎日。「一人でも多くの人が乗れるようにするのが私の使命」と意気込んでいる。
いつもは仕事で車を使う同市の建設業経営川嶋久さん(42)は「私たちが現場に行かないといつまでも町は復興できない」と話し、小型自転車と電動自転車を品定めしていた。
福島市内に7店舗あるホームセンター「ダイユーエイト」にも自転車を買い求める人で数十人の行列ができている。地震でシステムトラブルが発生したため、地震発生後の販売台数は集計できていないが「普段は行列なんてできない。4倍以上は売れている」(本部営業企画部)。自転車を販売する際は、タイヤの空気圧などの整備と防犯登録などで数分から10数分を要す。
被災地のガソリンスタンドはいまなお、在庫切れの店舗が続出。この状況が改善されない限り、自転車を求める列が途切れることはなさそうだ。 (2011年3月18日 スポニチ)
東日本大震災:被災地、自転車も品薄に ガソリン不足が影響、通勤や捜索のために
ガソリン不足が深刻化している東日本大震災の被災地で、自転車が売れている。通勤に使う人が多いが、中には50キロ先へ行方不明の妻子を捜しにいくという人も。品薄状態が続き、古い自転車を修理に持ち込む人も増えている。
福島市万世町の自転車店では、ガソリンスタンドで在庫切れが続出した13日に100台が売り切れた。同市内に15店舗あるホームセンター「ダイユーエイト」も普段の4倍近く売れている。同市宮下町の「橋本輪業商会」では、在庫40台が15日に売り切れた。入荷の見込みもない。パンクして使っていなかった自転車の修理に訪れる客も絶えず、経営者の橋本貞良さん(78)は「こんな売れ行きは初めて。『通勤に要るのでどれでもいい』と頼まれる。被災者の心労を考えると売れても喜べない」と話した。
仙台市青葉区の「シクロヤマグチ」。11日の震災発生から2日間で計約30台が売れた。13日ごろからは、長距離を走れるスポーツタイプを買う人が増えた。16日に購入した30代男性は「連絡が取れない妻と11カ月の子供を捜しに行く」と話し、約50キロ離れた宮城県石巻市に向かったという。
盛岡市上田の「佐々宗(ささそう)輪店上田店」では14日から2日間で約500台が売れた。通勤に必要という人が多いという。16日で100台の在庫があるが、売り切れるのは時間の問題だという。(2011年3月17日 毎日新聞)
盛岡市、放置自転車を被災地に無償提供
盛岡市は19日、市が保管していた放置自転車132台を、自転車販売店などで組織する岩手県自転車二輪車商業協同組合に無償で提供すると発表した。同組合などが修理し、同市内の医療従事者や、沿岸部の被災地に送り、移動手段として利用してもらう。ガソリン不足から被災地を中心に移動に支障が出ていることに対応する。(後略 2011/3/19 日本経済新聞)
岩手に自転車55台 大分市と新日鉄連携
東日本大震災を受けた県内から被災地への支援の動きは19日も続いた。ガソリン不足の被災地の「足」にしてほしいと自転車を送ったり、医療用の血液に役立ててもらおうと多くの人が献血に訪れたり…。「少しでも被災地の力に」という思いが活動をつないでいる。
大分市と新日鉄大分製鉄所は18、19日、燃料不足で交通手段の確保に困っている被災地の岩手県に自転車55台を送った。市が自転車、大分製鉄所が輸送手段を用意した。
自転車は主に保管期限の過ぎた放置自転車を再利用し、2008年の大分国体でレンタサイクルとして使われた。市が予備用に保管していた。
大分製鉄所は、給油に使うタンクローリーをトラックに同行させることで輸送手段を確保。新日鉄釜石製鉄所(岩手県釜石市)から「燃料不足や道路の損壊で車が使えない。自転車が移動に有効」と聞き、大分市に打診したところ、市が提供を快諾。代わりに輸送の協力を依頼された。空気入れや外付けの鍵なども一緒に送った。
市と大分製鉄所は「復興支援に役立てもらえれば」としている。(2011/03/20 西日本新聞)
東日本大震災:支援の動き続々 各自治体で準備本格化 /静岡
わずかでも力になりたい−−。東日本大震災で被災した人たちを支えようとの動きが19日もあった。地震と津波で暮らしの基盤を根こそぎ奪われた多くの人たちへの支援の輪は広がっている。
◇市民が自転車を寄付 412台寄せられ、仙台へ−−浜松
車を失ったり、ガソリン不足で移動に苦慮する被災者のために、浜松市民は19日、計412台の自転車を持ち寄った。自転車販売店の店主らは1台ずつ整備を済ませると「頑張れ東北!(浜松市民)」と書いたテープを張り付けた。寄付を呼びかけた市は20日も受け付ける。
浜松市は関係組合などと協力し、計7区で市民から自転車の提供を受けた。中区の浜松城公園駐車場には、婦人用のかご付き自転車やマウンテンバイク、子ども用の自転車など143台が集まった。中古だけでなく、新品もあった。
かご付きの自転車を持ち込んだ同区の小杉操さん(79)は「私にできることで支援に協力したい」と話した。
市は集めた自転車を仙台市にいったん輸送することにしている。被災者には仙台市を通じて配られる見通しだという。(2011年3月20日 毎日新聞)
自転車売り上げ5倍 被災者思い車自粛「ガソリン使わないように」
東日本大震災の影響で、県内でもガソリンや食料品などの買い占めが収まらず、各店で品切れが続いている。被害の大きい被災地への供給に悪影響も出かねず、県内に避難してきた人たちからは「避難所に物資を届けたいのに…」「遠くの親戚宅に行くにも栃木で止まってしまい、身動きが取れない」といった悲痛な声が上がる。一方、「身の回りで何かできることを」と車の利用をやめ、自転車に切り替える人も増えている。
3連休初日の19日も、県内ではガソリンスタンドの開店時間前から長蛇の列ができ、各所で混雑が見られた。県石油商業組合によると「在庫切れが続き、県内で営業できているのは全体の2割ほど」という。順番や給油量をめぐり、客同士で小競り合いが起きるなど、トラブルも目立っている。
石油連盟(東京)によると、東北・関東の製油所9カ所のうち、5カ所が操業を停止していたが、2カ所は来週、再開する見込み。被災地への供給を優先させていることなどから品薄感はあるが「極端な買い占めがなければ、来週中には通常に戻る」としている。
県民だけにとどまらず、東北から避難してきた人たちの中にも、ガソリンを必要としている人は多い。福島第2原発のある富岡町から高根沢町の妹宅に避難してきた萩原圭子さん(53)もその1人だ。
地震発生の11日、棚などが倒れてめちゃくちゃになった自宅から、毛布と長座布団を1枚ずつ持ち出し、夫とともに、車で町内の施設に逃げ込んだ。その後、同県内の親戚宅を転々としながら、一緒にいた友人を福島市に送り届け、15日にようやく本県入りした。
電気設備の仕事に就く夫は、福島原発への送電復旧のため、16日に福島に戻った。萩原さんも「連絡の取れない高齢の知人を探しに戻りたいけど、ガソリンも物資もなく、身動きが取れない。ご不便をかけて申し訳ないが、少しでも分けてもらえたら」と協力を求める。
こうした中、車に代わる自転車を買い求める人も増えている。ホームセンターのカンセキが展開する自転車専門店「ネオ・サイクリスタ駅東店」(宇都宮市元今泉5丁目)では通常の5倍の売れ行きという。「1日100台以上は売れている。自宅にある自転車を修理に持ち込む人も多い」(同店)という。
通勤用の自転車を購入していた同市鶴田町、会社員渡辺有美子さん(38)は「物資の足りない被災地のために、なるべくガソリンを使わないようにしようと思った。会社までの10キロを自転車通勤にすれば、健康にも良いので」と笑顔で話した。 (3月20日 下野新聞)
自転車修理任せて 大阪→仙台入り
黙って大阪におられへん! 大阪市内で移動型自転車修理店「新北島サイクル」を営む衛藤典雄さん(66)が19日、小型車で約16時間かけ、避難所となっている仙台市若林区の七郷小学校まで到着した。さっそく無料で自転車やバイクのパンク修理、車いすの修理を引き受け、被災者たちを元気づけた。
いてもたってもいられなかった。大阪から徹夜で運転し、1人で仙台に駆けつけた。衛藤さんは、約1200人の被災者が身を寄せる七郷小学校に到着すると、車から修理道具を取り出し、通りがかる人々に次々と声をかけ始めた。
「大阪からパンクの修理にきたで〜。自転車おかしかったら、持っておいでや〜。大阪やって皆のこと応援してるんやで〜」。
衛藤さんは18日に地元警察署で緊急車両の許可証をもらい、夜10時半に大阪市住之江区の自宅を出発。夜通しで北陸道を新潟まで北上。その後は一般道で山形を経由し、19日午後2時半に仙台に到着した。「家族は少し心配していたけど、テレビで報道を見ていて、助けにいかなきゃと思った。大阪を出てから一睡もしてないけど、大丈夫や」。
ガス欠を心配し、高速道路ではサービスエリアを通るたびに給油を繰り返した。その数10回。食事もおにぎり2個だけで、ひたすら走り続けた。到着後、校内放送で修理車の到着が伝えられ、パンクした自転車を持った被災者が次々と姿を見せた。「夜も車で寝るから大丈夫。皆には迷惑はかけへんで」と笑った。
衛藤さんは30年ほど前から、大阪で移動自転車修理業を営んできた。自身も阪神大震災の経験者。幸い、大きな被害はなかったが、その時は自転車のパンクで困っている人がいることを知らず、応援に駆けつけることができなかったことをずっと後悔していた。
「今度同じようなことが起こったら、絶対に助けに行こうと思ってたんや。車いすも壊れていると聞いていたし、介護の人の疲れも限界にきているしな」。
修理を終えて、被災者からお礼を言われると「将来、あの時大阪からあんなおっちゃん来てたなあって、思い出してくれたらそれでいいんや。みんな頑張るんやで」と、屈託のない笑顔を見せた。衛藤さんは若林区内の被災地を中心にして、今後も25日まで各避難所をできる限り回る。1人でも多くの人のために−。大阪のおっちゃんは真っ黒な手で、休むことなく無償で修理を続けていく。(2011年3月20日 ニッカンスポーツ)