一番大きく注目されているのは、香港の民主的な行政長官選挙を求めるデモですが、それだけではありません。トルコではクルド人によってイスラム国への対応を求めるデモが広がっていますし、ナイジェリアではイスラム過激派が200人以上の女子生徒を連れ去った事件の早期救出を求めるデモが行なわれています。
スペインのカタルーニャ州では独立を求めるデモが盛んになっていますし、アメリカ・ミズーリ州では、警官による黒人少年射殺への抗議デモで、人々が怒りをあらわにしています。メキシコでは学生43人失踪に抗議するデモが起き、ニューヨークでは気候変動への取り組み強化を求めるデモが繰り広げられました。
あまり報じられていませんが、フランスでは同姓婚に反対する数万人規模のデモが起きていますし、ヨーロッパ各地では、自由貿易協定反対デモが頻発しています。アイルランドでは水道料金の導入に反対するデモが10万人規模に広がっていますし、モスクワではウクライナ介入を批難する大規模な反戦デモも起きています。
日本でも、安倍政権による秘密保護法の施行や集団的自衛権の行使容認、労働規制の緩和などに対する抗議デモが行なわれています。いわゆるヘイトスピーチ、反韓デモや、これに反対するデモも起きていますし、原発再稼働反対、反原発を訴えるデモは長期にわたって続いています。
暴徒化したり、警官隊と衝突するようなケースもありますが、一般にデモと言うと非暴力です。プラカードを掲げて行進したり、拡声器を使ってシュプレヒコールをあげたりするのがよくある光景です。香港のように通りや施設を占拠したり、大規模な集会を開いて演説をしたりすることもあります。
ただ、なかには変わったデモもあります。示威行動という点では間違いなくデモですが、先月、バルト三国の一つ、ラトビアで行なわれたデモは、一風変わったデモでした。小雨の降る中で決行されたデモ行進は、スーツ姿の人たちが自転車に乗っているだけです。
そこにはプラカードもシュプレヒコールもありません。でも唯一、竹で組まれた枠組みを背負っており、その意図を明快に表わしています。この枠は、クルマの形に組まれています。さほど重くはないのでしょうが、それぞれの参加者が肩に載せて枠を支えているようです。
実はこれ、カーフリーデーに行なわれたデモ走行です。9月の22日は世界的にカーフリーデーとされています。カーフリーデーは、都市の中心部でマイカーを使わないことによって、交通や環境、都市生活とクルマの使い方の問題について考える日とされています。
このデモは、いかにクルマが場所をとっているか、道路上で大きなスペースを占めているかをビジュアルで表わしています。出勤時間のクルマの多くには、一人しか乗っていないのは自転車と同じです。なのに、クルマはいかに大きな場所を占有しているか、そのため渋滞を引き起こしているかを揶揄しているわけです。
カーフリーデーは、クルマの使い方について考える日です。日本の自治体などが呼びかけるノーカーデーは、渋滞緩和や大気汚染抑制のために、公共交通機関の利用を呼びかけるキャンペーンですので、少し違います。カーフリーと言っても、必ずしもクルマを使わないのではなく、使い方を考える日なのです。
ふだんの生活の中で、クルマを代替する方法を実践してみるのもいいでしょう。クルマが交通事故によって人命を奪っていること、騒音や大気汚染を引き起こしていること、渋滞でイライラを増やしていること、歩かないことで人々の健康を損なっていることを、改めて自覚するのもいいと思います。
もちろん、モータリゼーションの進んだ現代社会において、クルマは不可欠な役割を果たしています。物流を担うトラックや公共交通としてのバス以外にも、救急車などの緊急車輌とか、建設や工事用の車輌、ゴミ収集車といった、広い意味でのクルマがなければ私たちの生活は成り立ちません。
そして、公共交通の発達していない地方においては、マイカーは生活に不可欠な移動手段でしょう。しかし、都市部においては、必ずしもマイカーを使う必要はないのではないかと考える人も増えています。日本では、あまり目立ちませんが、それが世界的なカーフリーデーの広がりにつなかっているのです。
ふだん、あまり意識されませんが、クルマは道路において大きな面積を占めています。一人当たりの道路占有面積で考えれば、バスや自転車と比べて、その違いは明らかです。都市部の貴重な資産である公共の道路を、大きく占有しているのがマイカーなのは間違いありません。
都市の資産である公共の道路が生み出す経済効果は莫大なものになります。都市でその多くをマイカーが占めることで、大きな経済損失を招いていると指摘する専門家もいます。事故や公害や健康面など以外にも、クルマと道路の使い方について考えるきっかけをつくっているデモと言えるでしょう。
こういうことを言うと、そのためにクルマはたくさん税金を払っているんだと、道路占有の正当性を主張する人がいます。たしかに、歩行者や自転車は直接、いわゆる道路特定財源を負担しているわけではありません。しかし、だからと言って道路の占有が正当化されるわけではありません。
自転車と比べれば、はるかに重量があり、通行に伴う道路の毀損も大きいわけで、道路の維持費に相応の受益者負担をしていると考えることも出来ます。もちろん、新しい道路の用地買収などにも財源が使われてきましたが、それは一部にすぎません。
クルマが登場する、はるか昔から道路はあったわけで、道路の用地代を全てクルマの所有者が払っているわけではありません。道路をクルマが走るようになったために舗装が必要になり、定期的な修繕が必要になったことを考えれば、税金を余計に負担しているからと言って、占有を当然とするのは少し違うでしょう。
以前、ニューヨークで道路の一部を歩行者に開放したことで、大きな経済効果があがった例を取り上げました。クルマが多く通行出来ることだけが、都市における道路の意味ではありません。都市における道路は大きな資産であり、市民が共有する財産なのです。
そう考えると、特に都市部において、通過交通や、とくに必要性のない個人のため、あるいはタクシーのドライバーが昼寝をするためなど、不必要に占有している道路の面積は、まことに不経済と考えることも出来ます。それならぱ車線を減らして、自転車や歩行者のために使ったほうが合理的と考えることも出来るでしょう。
自転車なら環境への負荷も低く、化石燃料を消費しません。道路の占有面積も圧倒的に小さいため、移動のための道路面積が少なく効率的です。物流などの必要は否定しませんが、少なくとも都市部の移動にマイカーを使うのは合理的でないとの考え方が世界的に広がるのも自然なことと言えるでしょう。
必要なクルマの通行もありますから、全く締め出さないにしても、都市部ではクルマが使う車線を減らすという方向性は考えられると思います。実際に、クルマの車線を減らして自転車レーンにしよう、歩行者が安心して歩けるようにしようという考え方が、世界の都市に広がりつつあります。
日本の都市部の道路では、相変わらずクルマをスムーズに通すため、さらに拡幅しようとしています。用地買収などで道路計画は何十年にもわたることが珍しくないので、相当以前からの計画も多いのでしょう。しかし、それは高度経済成長時代の古い考え方のままとも言えます。
少子高齢化が進み、人口が減少していく時代、道路の需要も長期的には減っていくはずです。当然、税収も減っていきますから、その維持費の問題もあります。全国の多くの自治体で、道路や橋やトンネルなど既存のインフラの更新、修理維持費用が問題となっています。
確かに目先の渋滞は減るかも知れませんが、さらに道路を拡幅してクルマを通しやすくする意味があるのか、慎重に考える必要があるのではないでしょうか。高度経済成長時代の固定観念、思い込み、クルマ優先の凝り固まった考え方に陥っていないか、よくよく考えてみるべきでしょう。
最近よく聞く、都市の中心部に必要な機能を集めたコンパクトシティにしてもいいでしょう。市街の中心にはクルマの流入を規制し、人々が安心して歩き、語らい、くつろげる場所にするという考え方もあると思います。市民が考えてそうするならぱ、他の多くの都市と同じである必要はありません。
みな当たり前のようにクルマを使っていて、それを疑っていません。しかし、クルマを使わないスタイルもあるはずです。公共交通や、短い市街の移動なら、自転車を使うことも出来るでしょう。そのことによって、より安全でクリーンで健康的でストレスの少ない、魅力のあふれる街になるかも知れません。
他の都市が当たり前のようにクルマ前提の都市になっているからと言って、何も考えずに、そういうものだと思い込んでいないでしょうか。もっと、「私たちの都市、私たちの選択」を考えてみてもいいはずです。そのことを訴えるデモでもあるのです。
道路やクルマの問題以外にも、実は変化しているのに、昔の考え方が当たり前になっていて気づかないことは多いと思います。平和とか民主主義とか自由とか、そのありがたみを忘れていることも多いに違いありません。自分に関係ない他の都市のものでも、往々にして、何かを気づかせてくれるのが『デモ』かも知れません。
政治資金規正法違反や公職選挙法違反なら、大臣辞任どころか議員辞職や送検という話ではないんでしょうか。
自動車は害が大きいですから、自転車への乗り換えが善となるという現実については、サイクルロード氏がこれまで幾度も解説してくださっています。私も、その考えに賛同いたします。
『野蛮なクルマ社会』というキーワードでGoogle検索してみると、自動車がいかに地域の安全やもろもろの環境を破壊しているかがよくわかります。クルマ優先のために、ヒトが生きづらい地域になっている大きな皮肉ですね。
そして『自滅する地方』で検索すれば、いかに自動車が地方を破綻に導いているかがよくわかります。
便利であるはずの自動車が、逆に不便と危険を地域に蔓延させ、道路の維持費で財政破綻も現実味を帯びてしまっているのは、大きな皮肉と言えるでしょう。
地方ほどコンパクトシティが必要であり、その主役となるのはシェアサイクルも含めたバスや列車、LRTなどの公共交通と、自家用"自転車"です。
自動車依存が深刻な地方が生き残るには、自動車依存から脱却する他ないのですから。それができなければ財政破綻となり、夕張のように結局はコンパクトシティを目指すことになる。
ならば、財政破綻となる前に脱自動車、コンパクトシティを目指すほうが利口というものです。
『高齢化を見据えた交通網は自転車主体』ではドイツの取り組みが紹介されています。