残念ながら、年間多くの人が死傷しています。その結果、その家族や友人ら、多くの人に不幸が訪れていることになりますが、それが当たり前のことのようになっています。これだけ多くのクルマが走っている以上、多少の事故が起きるのは不可抗力であり、どうしても事故は起きると考えています。
もちろん、少ないに越したことはないものの、ある程度仕方がないというのが大方の人の考えと言えるでしょうか。しかし、仕方がないと思っていては、減るものも減りません。減らすのではなく、道路上で死ぬ人、重篤な傷を負う人をゼロにしようという取り組みがあります。
「
ビジョン・ゼロ」です。1997年にスウェーデンの国会で議決されて始まりました。最終的に道路交通によって殺される人、重傷を負う人をゼロにすることを目指しています。道路交通によって、人命が失われることを許容すべきではないと考えているのです。
人間の命や健康は、道路交通システムやその目的よりも優先されるべきです。交通事故による死傷は防ぐことが可能です。ですから、それは許容されません。人間は間違いを犯すので、それに応じた交通システムを設計しなければなりません。こうした考え方を元に、交通事故による死傷ゼロを目指す考え方です。
スウェーデンでは大きな成果を上げ、カナダ、オランダ、イギリス、アメリカの各都市などに広がっています。交通安全、路上で死なないことは人権であり、そのために総合的な交通安全ソリューションを実施し、システム全体を見直すことを標榜しています。
例えばカナダでは、すべての当事者が交通安全を文字通り『最優先』にし、車両によって他の人を傷つけないことに真剣に取り組むよう求めています。政府に対しては、連邦政府の高速道路整備予算の一定割合を、歩行者やサイクリストのためのインフラに充てることを要求しています。

具体的には、クルマと歩行者や自転車を分離するための方策を実施すること、都市部や住宅地の制限速度を時速30キロにし、それに応じた道路設計にすること、明確なフェイルセーフ設計、つまり間違っても人を死傷させないような設計を取り入れること、スピード違反取締のカメラやレーダーの整備などを求めています。
ありとあらゆる手法によって、重大な交通事故が起きないような体制に持っていくことを目指しているわけです。「人命や健康は、社会の中で他の利益と交換することはできない」というのが基本的なスタンスであり、人命は最優先されるべき、されるのが当然というのです。

クルマが誕生して150年、モータリゼーションの進展に伴って、社会の中にも効率や経済性を優先する考え方が定着し、いつの間にかクルマの利便性優先のような部分があるのは否めないでしょう。それを根本の考え方から変え、人命最優先の仕組みに転換することで、死傷ゼロを目指すという考え方です。
もちろん、一朝一夕に道路交通システムを転換できるわけではありません。さまざまな方策を進める一方で、ドライバーを啓発し、意識を変えることにも力を入れています。道路で人が死ぬべきではないという価値観を浸透させ、交通システム転換へのコンセンサスを醸成し、それを加速しようとしています。

誰かが死亡、または重傷を負わされたら、再び同じことが起きないようにすることも重要です。そのため原因を追究し、その解決策を求め、実際に改善する手順を確立していかなければなりません。予算的なこともありますが、事故を防ぐためには、抜本的なシステムの改善も除外しない構えです。
カナダ・トロントでは、先日、タクシーとサイクリストの事故が起きました。その経緯はともかく、ドライバーが意図的にサイクリストを傷つけることも可能なことが露わになっています。こうした可能性を無くすためには、物理的にセパレートするようなことも考えざるを得ないでしょう。

歩道を拡充したり、物理的にセパレートされた自転車レーンを整備するのが簡単とは言いません。しかし、それが必要なのは明らかであり、それを目指さなければ、死亡事故ゼロは実現しないでしょう。それならば、整備していく必要があるという主張です。
予算もさることながら、道路のスペースが足りないという物理的な制約を指摘する人もあるに違いありません。しかし、効率や経済性より人命優先です。まず死亡しないのが大前提であり、基本的な人権であるとの考え方に立つならば、それを前提に考えなくてはなりません。

都市部や住宅地、商業地やビジネス街など、人が多く集まる場所に、クルマでのアクセスの利便性が優先されるでしょうか。クルマを使うなというのではありません。もちろん、クルマで便利ならば言うことはありません。しかし、クルマ向けの整備はキリがなく、いくら整備しても、そのぶん交通量が増え、結局渋滞するだけです。
世界の多くの都市では、そのことに気づき始めています。苦労して道路を拡幅して、クルマの車線を増やしてきましたが、果たして意味があるのか疑い始めています。結局は渋滞するだけであり、通過するだけのクルマも多く、経済性についても疑問です。排気ガスによる公害や温暖化ガス排出など環境負荷も見逃せません。

確かに、物流など必要な部分もあります。しかし、大きな空間を占める割に1人か2人しか乗っておらず、長い時間渋滞で止まっているだけのクルマ、違法に路上駐車するクルマ、これは道路という貴重な公共空間の大いなる無駄ではないでしょうか。これ以上、都市部のクルマ用の道路整備に意味があるでしょうか。
そのあたりに、思い込み、固定観念が出来ていないでしょうか。そこに気づけば、クルマの車線を減らして自転車レーンを整備したり、歩行者の安全を向上させることも可能なはずです。都市へのクルマの流入を抑制し、公共交通の利用を促し、人の集まる都市では、もっと人々が都市を楽しめるようにすべきではないでしょうか。
国連に人間居住計画、国連ハビタットという組織があります。世界各地で急速な都市化が進行している現代、都市に暮らす人々の居住問題はますます深刻化しています。国連ハビタットは、都市化や居住に関する様々な問題に取り組む国連機関です。
ここは、都市のさまざまな問題を扱うわけですが、交通システムも重要な要素の一つです。昨年、
国連ハビタットの主催した都市デザインコンペに優勝した作品があります。“JUSTICIA URBANA”(都市の正義)と題された、チリのアーティスト、Fabian Todorovic さんという方の作品です。
このイラストでは、都市の空間の不平等、非効率、根本的な間違いが端的に表わされています。いつの間にか、クルマ優先が当たり前になり、そのことをおかしいとも思わなくなっていますが、これを見れば、その間違いに気づく人も多いのではないでしょうか。
自分の家族や知り合いに起きない限り、多くの人は交通事故に鈍感になっています。新聞やテレビで悲惨な事故を見れば、眉をひそめますが、特に珍しいことではありません。しかし、いつ自分や自分の周りで起きるかわかりません。その時に嘆き悲しみ、人命が取り返しのつかないことに気づいても手遅れです。
交通事故死者数は減っていますが、それは医療技術の進化で、24時間以内の死亡が減り、統計に加算されないという面もあります。相変わらず多くの人が死傷しているのは間違いありません。果たして、仕方のないことで済ましていいのでしょうか。ゼロを目指さなくていいのでしょうか。私たち一人ひとりが考えるべき問題です。
俳優の強姦事件、親の溺愛と七光りで若くして売れて、苦労してない分、何か勘違いしてしまったのでしょうね。