事件や事故、災害も起きます。残念なことに、それらによって人の命が奪われることも少なくありません。事件・事故、自然災害などで死者が出て、その背景にある問題が明らかになると、政府や自治体などの関係部署が記者会見を行い、原因究明と再発防止などの対策を徹底すると表明したりします。
地震によってブロック塀が倒れ、下敷きになって小学生が死亡した事例では、違法建築だったことが明らかになりました。他の危険なブロック塀の緊急調査が行われたり、違法な塀の撤去や暫定的な安全対策が施されたり、再発防止に向けた計画が発表されたりします。
過労死による自殺が明るみになった事例では、責任追及と共に、いわゆる働き方改革へ向けた議論になりました。子供が虐待死した事件では、親が刑事訴追されるとともに、問題点の洗い出しにより、児童相談所の人員の拡充、虐待を見逃さないためのルール変更や体制の整備の必要性が指摘されています。
人の命が失われる悲惨な事例が起きるたびに、世間の関心が集まり、原因の追究や再発防止策、関係各所の体制整備が行われたりします。未然に防げるのが理想ですが、なかなかそうもいかない以上、いかにそれを教訓とし、再び不幸を起こさないため、改善できるかが焦点となります。
それが社会をより良くしていくことにつながります。私たちの生活をより安全に、安心にするためにも重要なことです。背景に不備の放置や不作為、慢心や不注意があれば正す必要があります。不幸な犠牲を、せめて貴重な教訓として改善に取り組むのは、政治や行政の責務として当然のことでもあります。
ただ、なかか改善されない問題もあります。人数の多寡で比べるわけではありませんが、いまだに多くの人命が失われているのに、その再発が完全に防止出来ていないこともあります。その一つが、交通事故です。相変わらず年間3千7百人もの死者が出ています。
もちろん、全く放置されているとは言いません。警察などの関係者の努力もあって、昨年の交通事故死者数は、過去最少となりました。昭和45年には、史上最悪の1万7千人近くが死亡していたことを思えば、大きく減少しているのは確かです。
しかし、相変わらず千人単位の人が死亡しており、再発が防止出来ていないとも言えます。昔と違って、最近は救急救命技術の飛躍的な進歩により、交通事故で24時間以内に死亡する人が大幅に減った側面も指摘されています。交通事故死者数は発生から24時間以内の死者数で、1日以上延命すると人数に含まれないのです。
政府は20年までに年間の死者数を2千5百人以下にすることを目標に掲げています。座視しているわけではないでしょう。ただ、17年版の警察白書は、達成は困難と指摘しています。これ以上の悲劇の抑止は無理、ある程度は減らせても、根絶は無理ということなのでしょう。
さて、交通事故は世界的にも課題ですが、イギリスの首都ロンドンは先週の火曜日、「
2041年までに交通死亡事故をなくす。」と宣言しました。2030年までに交通事故死や重傷者を7割削減し、41年までに死亡者を完全にゼロにする計画を発表しています。
これは近い将来、クルマが自動運転に切り替わるから、死者がゼロになるだろうという見通しではありません。それとは全く別の話として、現在の人間が運転するクルマ、交通空間の中で、事故死者をゼロにする計画です。減らすではなく、ゼロまで到達させると宣言しているところが、日本とは違います。
ロンドンは、他の世界の大都市と比べても交通安全への取り組みに熱心です。長年にわたる努力の結果、少なからぬ成果を上げてきました。実際に、他の大都市と比べて、交通事故死者は少なくなっています。しかし、それで満足するどころか、もっと減らしてゼロに出来ると考えているのです。
いわゆる、
ビジョン・ゼロという考え方です。道路交通において、人が死亡、または重傷を負うことは、倫理的に決して容認できないという原則に基づいています。死亡や重傷者が出るような交通システムは不備であって、それは正されなければならないという考え方です。(
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日本人の多くは、交通事故死者が出ないに越したことはないが、完全にゼロは無理だと漠然と考えているのではないでしょうか。しかし、生命や健康は決して社会の他の利益と交換できないという原則を掲げ、世界的に広がっているプロジェクトが、ビジョン・ゼロなのです。
特に奇抜な方法をとるわけではありません。ロンドンの中心街には、渋滞を減らすため、クルマの流入を抑止するゾーンがあるのですが、そこでの制限速度を時速20マイルに引き下げます。他の地域でも、中心街や特に危険と思われる場所の制限速度は時速20マイルにします。
また、これまでの事故の発生の状況からみて、最も危険とされている73の交差点のうち、21を特定し、再設計します。大きな危険のある交差点を修正するため、今後4年間だけでも、少なくとも5千4百万ポンドの予算が投入されることになっています。
ロンドンでは、徒歩や自転車のために必要なインフラ投資にも力を入れています。公共交通との乗り換えなど、利便性の向上にも予算が使われます。これは、都市でのクルマ移動を減らすという明確なビジョンに基づいています。2041年までに、1日あたり300万台のクルマの移動を減らすのが目標です。
トラックなどの大型車両は、全体の交通量の5%未満ですが、自転車に乗っている人を死亡させる割合の50%を占めます。このため、大型車両の安全性を向上させます。スピードを抑制したり、死角を減らしたり、いろいろな設計修正を義務付けて、その評価基準を設け、段階的に低評価車はロンドン域内を通行できなくします。
そのほかにも、警察は繰り返し飲酒運転をする悪質な運転者に対する取り締まりを強化するなど、いろいろな対策を講じることになります。どれもオーソドックスなことばかりです。でも、こうした当たり前で地道な努力を重ねていくことの先に、死者ゼロがあると考えているのです。
日本でも、努力されていないとは言いません。しかし、もっと出来ることはたくさんあるはずです。警察だけでは無理で、政治が動く必要もあるでしょう。例えば、自転車に乗っていて交通事故死する人が大勢います。一方で、自転車の通行に危険な箇所、問題があると思われる場所はたくさんあります。
もっと、自転車のためのインフラ整備が必要なのは明らかです。いままで、自転車の走行空間の整備が圧倒的に遅れてきたわけで、あって当然のインフラ、必要な走行空間の無いことが問題です。交通事故死者を減らすためには、当然取り組まなければならない整備が行われていないのが問題です。
こんな状態を放置していながら、ゼロにするのは無理と言うのは違うでしょう。少なくともロンドンは、そういう考え方に立っています。市民が必要としており、市民が選択して自転車に乗っているのですから、必要な自転車インフラを整備するのは政治、行政の義務でもあります。
日本では、自転車を歩道走行させ、あまりクルマ優先できてしまった結果、自転車に対する意識が違います。なかには、「市民は自転車に乗らずに歩きましょう。」などと身勝手な論理を呼び掛ける市もあります。自転車は目障りで、面倒で、そのための整備をしたくないのでしょう。
しかし、市民は自らの判断で自転車を選び、利用しているのですから、そのことに文句をつけるのは間違っています。民主主義社会、あるいは地方自治の考え方からして、市民が必要とする整備や公共サービスを提供するのは当然です。このあたりの感覚も、日本の自治体とロンドンとは違うのかも知れません。
自転車に限らず、まだ出来ること、しなければならないことがたくさんあるのに、これ以上交通事故死者は減らせないというのは無責任です。予算の問題、経済合理性を言う人もいますが、人命や健康は決して社会の他の利益と交換できないということを、よく考えてみるべきでしょう。
本来は、鉄道や航空機だけではなく、道路交通システムによっても人命が失われるようなことがあってはならないのです。ところが、不完全な道路交通によって、多くの人命が奪われることが常態化しています。そして、このことに慣れ、麻痺してしまって異常だとわからなくなっています。
ロンドンは、死者をゼロにする宣言をしています。本当は、日本の政府や自治体も、死者が見かけ上、減ったくらいで喜ぶべきではないはずです。私たち市民も、それを仕方がないと考えてはいけないでしょう。自分の身近な人が死亡してからでは遅すぎます。私たちも、ゼロを求めていくべきではないでしょうか。
文科省の汚職は更に拡大しそうです。その管轄のスポーツ界の不祥事も続出、どこまで腐っているのでしょうか。