先入観、固定観念と言ってもいいでしょう。しかし、自分ではなかなかそのことに気づけません。自分では、特に先入観や固定観念を持っているとは思いません。それが何であるかは知っている、程度にしか思っていないからです。思い込みではなく、理解している、知識として持っていると感じているわけです。
古代ギリシャの哲学者・エピクテトスは、『 知っていると思っていることを学ぶことは出来ない。』と言いました。たしかに、普通は既に知っていることをわざわざ学ぼうとは思わないでしょう。知っていると思っていることが邪魔をして学ぼうとしないので、まずそれを捨て去る事が必要と説いているわけです。
エピクテトスは学問について言っているわけですが、これを卑近な例で考えても納得できる部分があります。例えば自転車です。現代人は、よほどアフリカやアマゾンの奥地に住む人でもない限り、自転車のことを知っています。どんなものかもわかります。それどころか、少なくとも小さな頃には乗ったこともあるでしょう。
大人になってから、あまり乗っていない人でも、乗れば乗れるとわかっています。身近にいくらでも走っていますし、珍しくもありません。つまり、自転車に乗らない人の多くは、乗らなくても自転車について、どんなものかよくわかっているため、今さら自転車に乗ってみようとは思わないでしょう。

これが始めて見る乗り物だったり、一度も乗ったことのない乗り物なら違います。試してみようと思う人もあるでしょう。最近は、コロナ禍で自転車に乗る人が増えているという報道も耳にしますし、その理由も理解できますが、乗ろうと思わない人は、わざわざ試すまでもなく乗らないわけです。
別の言い方をすれば、食わず嫌いとなるかも知れませんが、昔のものや子供用とは違うことを知りません。私の知り合いにもいますが、何かの機会にスポーツバイクに乗り、その軽さ、快適さ、速さ、楽しさ、有用さに驚き、目から鱗が落ちたという経験をする人がいます。
つまり、なまじ自転車とはこういうものという理解があるため、乗ろうと思わないわけです。自転車がブームと聞いても、「ああ自転車ね、でも自分は乗る気がない。」という人は多いでしょう。趣味で自転車に乗っている方なら、理解されるのではないでしょうか。このことに気づいて、新しい政策を考えている国があります。
イギリスです。現在の首相は、ご存じボリス・ジョンソンです。このブログでは何度も取り上げていますが、彼がロンドン市長だった時には、通称ボリスバイクと呼ばれるシェアサイクルを立ち上げたり、自転車レーンの整備を進めたり、都心と郊外を結ぶ自転車ハイウェイを整備したりしました。
自身も自転車に乗って通勤したりする自転車好きとしても有名です。ロンドン市長としてサイクリング革命を打ち出し、本気で自転車環境の整備に取り組んできました。首相になってからも、交通渋滞、大気汚染、そして温暖化対策や環境、そして国民の健康増進の観点からも、自転車政策に前向きです。
昨年も、人々に自転車や徒歩による移動を促す計画に
総額20億ポンド、日本円にして約2770億円を投じることを打ち出すなど、国レベルでの自転車政策にも力を入れています。また数千マイルというレベルで、縁石などで保護された高規格の自転車レーンを建設するとも表明しています。

さすがに首相としては、EU離脱からコロナ対策、外交から経済政策まで忙しく、自転車政策ばかりに時間を割くわけにはいきませんが、他の仕事の合間をぬって、自転車政策の視察に出かけたりもしています。時々自転車に乗っているところも目撃されています。
ただ、イギリスでは、国民の移動における自転車の占める割合は、わずか2%にとどまっています。同じ欧州のドイツでは12%、デンマークは16%、オランダは27%という高い普及率を記録しているのと比べ、まだまだ自転車での移動が普及しているとは言えません。
国民に自転車を活用してもらうために、自転車レーンなどの走行環境の整備は重要です。しかし、環境の整備が進んだとしても、国民一人ひとりが自転車に乗ろうとしてくれない限り、国民の自転車活用は進まず、移動距離も増えません。自転車レーンが整備されたとしても宝の持ち腐れです。
そこで、イギリス政府は、自転車の試乗機会を増やす計画に資金を投入することを検討しています。特に、電動アシスト自転車を試してもらうことを想定しています。自転車に乗ったことはあっても、電動アシスト自転車には乗ったことが無いという人も、まだまだ多いはずです。
電動アシストが、どんなものか想像がつくと思っているため、わざわざ試してみようと思わないでしょうし、その機会もないのが実際のところだと思います。もちろん、国民にはスポーツバイクに乗り換えてもらってもいいわけですが、電動アシスト自転車のほうが、通勤や普段の移動にも実用的ですし、試してみる気になる人も多いでしょう。
電動アシストなら坂でもラクですし、荷物なども相応に運べます。乗ってみて、こんなにラクなのか!と目からウロコの人もあるに違いありません。一方で、ラクだと言っても、十分に運動になることも明らかになっています。アメリカと遜色ないほどの肥満大国と言われているイギリスでは、健康面でもメリットは大きいでしょう。

パンデミックで、イギリスでも自転車の売り上げが67%も増加しましたが、乗らない人は依然として乗りません。そこで、イベントとか、旅先の観光地でとか、いろいろな機会をつくって、電動アシスト自転車の試乗をしてもらおうという計画を検討中なのです。
まだ具体的な内容は明らかにされていませんが、昨年発表された
総額20億ポンドの基金の一環として、こうした、e-bike サポート計画が今月にも策定される予定です。英国自転車協会の分析によれば、e-bike に対する助成金は、CO2の削減において既存のEV助成金よりも2倍以上費用対効果が高くなることも指摘されています。
自転車ショップが販売促進のために開く試乗イベントというのはありますが、政府が試乗に力を入れるというのは聞いたことがありません。しかし、よく考えてみると合理的です。冒頭で述べたように、自転車なんて試すまでもなく乗る意味はない、価値はないと思っている人は多いはずです。
ジョンソン首相は保守党ですが、対する労働党の元党首に、エド・ミリバンド(Ed Miliband)という人がいます。実は、この人は50歳になって自転車に乗るようになりました。11歳か12歳の頃までに自転車に乗ることは学びましたが、神経質で乗ろうとは思わなかったと言います。
それが、ある時、フランスでの休暇中にふと電動自転車に乗ってみたのです。“Eureka!”の瞬間だったそうです。ギリシャ語に由来する感嘆詞で、アルキメデスが叫んだとされていますが、「見つけた!」とか、「わかった!」というような意味の歓喜と感激のフレーズです。それだけ目からウロコだったのでしょう。
その後、自転車政策の素晴らしさを理解し、その必要性を説くようになりました。交通政策というばかりでなく、環境政策であり、国民の健康を増進する福祉政策でもあるという、優れた政策だと強調しています。まるで、改宗でもしたかのような熱意を感じているそうです。


(左がミリバンド氏、右の手を上げているのはジョンソン首相)
果たして、どのくらいの人が試乗してくれるのか、どのくらいの人が目からウロコになるのかはわかりません。しかし、自転車の走行環境の整備と平行して、有意義な政策になる可能性があります。少なくとも、国民の移動の2%に過ぎない自転車移動を増やす方向には働くでしょう。
日本では、自転車と言えばママチャリだと思っている人が大多数です。歩道走行という特殊な状況に特化して発展してきた自転車です。足つき性や太いタイヤによる、とくに低速での安定性には優れますが、重くて遅くて、快適と感じない人は多いでしょう。坂を上るのは大変なので、降りて押さなくてはなりません。
昨今は特に、中国製の格安で粗悪なママチャリが市場を席捲しています。ママチャリでも、まともなものは、それなりの値段がしますが、今や自転車はディスカウントストアやホームセンターなどで買うものとなってしまい、売る側も値段の安さを争うものになってしまいました。
そうした環境が、思い込み、先入観、固定観念につながって、乗るまでもないと思っている人は多いはずです。電動アシストの普及率は高いですが、如何せん相変わらずママチャリタイプで歩道を走行しているので、遅くて快適ではなく、交通手段としての有用性も感じられないでしょう。
スポーツバイクや電動アシスト自転車に乗ってみて、さらに車道を走行して、その実用的なスピードでの移動まで体験しないと、目から鱗は落ちないかも知れません。しかし、日本でも真の意味で自転車の活用を進めるためには、自転車本来の有用性を体験してもらう必要があるのではないでしょうか。
◇ 日々の雑感 ◇
笹生優花選手のメジャー初優勝、山縣亮太選手の日本新記録、内村航平選手の五輪切符、大谷翔平選手の活躍なども含め、コロナ禍だから余計に感じるのでしょうけど、やはりスポーツの話題で明るくなるのは確かですね。