最たるものは人の死でしょうか。家族や友人など大切な人を亡くした人の悲嘆、苦悩、喪失感は筆舌に尽くし難いものがあります。それは不可抗力な病や、寿命として諦めざるを得ない理由とは限りません。理不尽なことや不条理によって命を落とすこともあります。
誰かの不注意や故意による事故による場合もあるでしょう。そのような場合には、悲嘆に加えて怒りや報復感情などが加わるに違いありません。民事裁判に加えて、刑事裁判による厳罰を求めたりするはずです。そして、その向かう先は加害者だけでない場合もあります。
例えば、加害者の過失に加えて、その過失の原因を作った人や、それを許した勤務先などにも責任追及の矛先が向かうこともあるでしょう。あるいは、その原因を引き起こした背景にある法律の不備とか、制度の問題を巡って、行政や自治体、業界団体などの責任が問われたりすることもあります。
これまでにも、中央道の笹子トンネルの崩落事故とか、関越自動車道の高速バス居眠り運転事故、軽井沢スキーバス転落事故、東池袋の高齢ドライバー暴走死傷事故など、社会的にも大きな関心を集めた事故がありました。世論として、再発防止の声が上がる場合もあります。
事故に限りません。水俣病とかイタイイタイ病、四日市ぜんそくといった公害で亡くなった方に対しても同様です。食品偽装とか、リコール隠しによる事故の犠牲、安全基準の問題等で起きた労働災害、建築基準法の不備による火災の死者など、加害企業に加え、行政や法律の不備が問われる事態も起きています。
このように、人の死を招きかねない原因や問題があるとしたら、それを未然に防止し、あるいは、これ以上不幸を繰り返さないよう、法律や制度を変えたり、問題となる対象を制限したり、改善・改良を求める声が上がったり、活動が起きるのは、ある意味当然の流れと言えます。
そのような観点からすれば、ドイツのベルリンで起きている活動も、至極当然ということになるでしょう。それは、ベルリンの都市部から、クルマを排除しようと呼びかける“
AutoFrei Berlin”という活動です。ベルリンに地球上で最大のクルマのない都市部をつくろうというものです。
クルマは事故によって、直接人の死をもたらします。クルマが通らない街をつくれば、死ななくて済む命がたくさんあるはずです。毎年、どれだけの無実の歩行者やサイクリストが命を落としているかを考えるまでもなく、クルマが数々の不幸を引き起こしているのは明らかです。
何度か取り上げているように、ヨーロッパの都市では大気汚染も深刻です。中国やインドだけではなく、実はヨーロッパでも大気汚染が深刻な問題であり、ベルリンも例外ではありません。窒素酸化物などの有害物質や、広く普及しているディーゼル車による、空気中の粒子状物質、PM2.5も問題となっています。
このクルマを原因とする大気汚染でEUでは年間50万人も早死にしていると専門機関が警告しています。PM2.5は、喘息や肺がんなど呼吸器系の疾患だけでなく、血液に入り込んで、心臓疾患などの循環器系の病気も引き起こし、多くの人の死因になっているのです。
この問題についても、クルマが主原因です。この死因による死者を減らすためにもクルマ無し、クルマ・フリーは有効です。大気汚染だけでなく温暖化ガス排出を減らすことにもなります。渋滞が減って、人々のストレスを減らすでしょうし、渋滞による莫大な経済損失を減らすことにもなります。
クルマが走ったり、駐車したりするスペースは、都市の公共空間を占有します。地価と比べて非常に安い価格で、1日の95%を占有するのも社会的な損失です。ベルリンでのクルマによる移動は全体の4分の1に過ぎません。また、都市部では、クルマを所有している世帯のほうが少数です。
一部のクルマ利用者のために、道路という貴重な公共空間を占有させるのは経済的に非効率です。クルマだとラクということはあったとしても、渋滞や、空いている駐車場を探す手間もあります。一部の人のためのパーキングスペースを確保することが、流通などの妨げにもなっています。
クルマ・フリーにすれば、市民が日常の中で突然死亡する悲劇が無くせるだけでなく、子どもたちが安全に遊ぶスペースが出来ます。お年寄りが家の前にイスを出して座ってくつろいだり、近所の人とコミュニケーションをとったりすることも出来るようになるでしょう。人間本位の都市になっていきます。
今も自転車レーンはありますが、違法駐車のクルマに行く手を阻まれ、危険になっています。多くの場所では、すぐ近くをクルマが追い越していくため、安全が確保されていません。クルマが通らなくなれば、誰でも安心して自転車に乗れるようになります。人々の健康増進にも寄与するでしょう。
ヨーロッパでも、モータリゼーションの時代がありましたが、もはやそのような時代ではありません。人々はクルマ優先で整備されてきた都市のインフラに疑問を感じ始めています。都市の生活空間がクルマによって占められていることに、うんざりし始めているのです。
よく考えると、少なくとも都市部ではデメリットは大きく、人が死ぬという悲劇の元凶になっているクルマが、大手を振って街を行き交っているほうがおかしいのです。そのほかの不幸の原因や問題と同じように、ベルリンの都市部では、クルマをなくすべきだと考える人が増えています。
今、この“
AutoFrei Berlin”の活動がベルリン市内各所に広がっています。中心部の道路などでデモが行われたり、SNSでは、“#carfreeberlin”のハッシュタグなどで拡散しています。この活動は、このベルリンの都市部からクルマを無くすことについての住民投票の実施を目指しています。
“Kreuzberg autofrei!”“Sonnenallee autofrei!”“Oberbaumbrucke & Wrangelkiez autofrei!”など、ベルリンの各地域ごとでクルマを無くそうと呼び掛けているのも特徴です。より身近な、自分たちの居住地区からクルマを無くして、もっと住みやすい街にしようという考え方に共感が広がっています。
クルマは、今や都市で最も非効率な移動手段となっています。交通事故による死傷という不幸は明らかですし、ベルリンでは、窒素酸化物と粒子状物質の制限値が、市内都市部の全体で慢性的に超過しているのに、依然として座視しているのは不作為の罪と言えるでしょう。
パリ、ブリュッセル、マドリッド、コペンハーゲン、オスロなど、ますます多くのヨーロッパの大都市で、クルマの乗り入れ禁止区域が設定されています。何億ユーロという単位で、歩行者や自転車利用者のためのより良いインフラ整備に資金が使われています。もはやクルマを優先する時代ではありません。
各都市それぞれのカーフリーの取り組みの内容は省略しますが、その中でベルリンは遅れをとっており、時間がないと主張します。グローバルに考え、ローカルに行動することを訴えています。この“AutoFrei Berlin”は、無党派のイニシアチブとして支持が広がっており、住民投票に必要な署名数は集まると見込まれています。
経験のある人なら誰でもわかると思いますが、身近な人が亡くなれば誰でも悲しいものです。一方で、知らない人の死亡の話を聞いても、なかなか実感がわかないこともあります。しかし、何かの問題を放置すれば、明日は我が身と実感するならば、多くの人の共感を集め、世論として広がっていくこともあるでしょう。
これまで、モータリゼーションでクルマを優先した街づくりがされてきたことに、多くの人が疑問を抱きませんでした。しかし、ここまでくるとクルマの害は明らかであり、非効率な移動手段であり、問題の元凶として排除すべきだと、誰もが気づき始めたということでしょう。
これまでのように、クルマのレーンや駐車スペースを減らして自転車レーンをという話ではありません。都市部からクルマを無くそう、通らせないようにしようという動きです。“AutoFrei Berlin”が主張するように、ヨーロッパの多くの都市がこの考え方を取り始めており、そのような方向に向かっていきそうです。
ベルリンはヨーロッパの他の大都市に比べて遅れているとしていますが、どこかの東洋の大都市は、何周か周回遅れくらいに遅れています。地下鉄なども発達しているわけですし、多くの人は都心でクルマ無しでも問題ないはずです。何より今後の不幸をなくすためでもあります。自分事として考えてみるべきではないでしょうか。
◇ 日々の雑感 ◇
元々東京の花見は今週末までかと言われていましたが、関東の今日や明日はあいにくの雨で花も散りそうです。