自転車に乗っていて危険な場面に遭うことがあります。
もちろん、それは自転車に限らず、徒歩やクルマでもあるでしょう。予想外の出来事、アクシデントを経験することは誰にもあると思います。しかし、起こるべくして起きる危険、起きやすい危険というものもあります。インフラや道路環境、あるいはその組み合わせなど、何かの要因があって起きる場合です。
当時、カナダのブリティッシュ コロンビア州ビクトリアに住んでいた、Trisallyn Nelson さんは自転車通勤をしていましたが、仕事からの帰り道で、クルマと事故になりそうになったのは、一度や二度ではありませんでした。しかも、それはいつも同じ場所だったのです。
彼女は、『もし、私が自転車で死ぬとしたら、それはこの場所だろう。』と思っていました。そして、何度も同じ場所で危険な目に遭うたび、だんだん腹が立ってきました。それは明らかに、何らかの複合的な要因で危険な状況が誘発される場所であると思われたからです。
腹が立ったのは、不注意なドライバーに対してだけではありません。サイクリストに対する明らかな危険があると推測されるのに、それを放置したままの行政に対しても怒りを感じました。人が死にかねない問題、不備に対して、なにも対策が打たれる様子が見られなかったからです。
その後、カリフォルニア大学サンタバーバラ校の教授として、同地で講座を持つようになった、Nelson さんは、このことに関して行動を起こすことを決めました。実は彼女の専門は、GIS (地理情報システム) です。つまり、彼女が取り組むのに最適な問題でもあったのです。
都市における自転車の安全性やアクセシビリティについて、GISを活用した研究をしようと思ったのです。GISテクノロジーにより、研究者は地理情報を取得して分析・研究することが可能になります。地図ベースのデータを扱うデータサイエンティストとして、研究を進めようと考えたのです。
つまり、地図データを分析することで、自転車の安全性について、どんな問題があるか解明できると考えたわけです。ただ、問題は、この課題についてのデータが圧倒的に不足していることでした。地図にデータを落とし込もうにも、そのデータが不足していたのです。
調べて見ると、公的機関に報告される自転車事故のデータは、発生している事故全体のわずか20%しかありませんでした。保険会社などの民間機関が持つデータを併せても3分の1程度です。これでは、事故の傾向を分析したり、その原因や不備、環境を探ろうにも上手くいきません。
当然ながら、この状態で自治体が自転車走行環境をより安全にしたいと考えても、その方法は判然としません。交通や都市計画のプランナーに相談したとしても、そのプランナーが、どこからどう取り組めばいいのかわからないという状況、すなわちデータ不足だったのです。
まず、この状態を解決しなければなりません。そこで、Nelson さんは、自転車の安全性を高めることを目的とした国際的なイニシアティブ、“
BikeMaps.org”を立ち上げることにしました。彼女のチームは、世界中のどこでも誰でも、自転車の事故やトラブルを地図上に記録し、危険を報告できるWeb サイトを開発しました。
昔ならば、交通インフラの問題点を調査し、それを地図データとしてまとめるには、調査機関に頼むしかなかったでしょう。しかし、それは膨大な時間と人員と費用を必要とします。でも、今ならネットを通じて、多くのサイクリストに協力を呼びかけることが出来ます。(ちなみにアクセスすると、その地域を含む地図が立ちあがます。)
つまり、調査会社にアウトソーシングするのではなく、言ってみればクラウドソーシングのような手法を使えるわけです。一人ひとりの自転車乗りは、自分が住む場所の特定の道路しか使わないかも知れません。しかし、そのような人たちであっても数が増えていけば、データは蓄積されていくことになります。( ↓ 動画参照)
自転車の安全性について、自分の身に起きかねないリスクについて、一定の関心を持つサイクリストは少ないはずです。そうした人たちの参加を呼びかけることでデータを集め、それを解析して都市に潜む危険を明らかにし、原因を解決し、より安全な街を目指すことが出来るだろうと考えたのです。
自転車を利用する市民は、“
BikeMaps.org”にアクセスし、事故に遭った場所、危険を感じた場所や事例、問題があると思える地点などを投稿することが出来ます。データが増えていけば、そこから傾向や原因なども浮かび上がってくる可能性があります。少なくとも、その地点に行き、危険性を調査することが出来るでしょう。
特にいま報告する体験がない人でも、自転車を利用している市民なら、自分がよく使う道路をチェックすることが出来ます。確かにここは危ないと納得するかも知れませんし、知らなかったリスクを確認することも出来るでしょう。特によく使う道ならば、新たに明らかになったリスクをチェックしておくのは無駄ではないはずです。
事故の再現性にもよりますが、事故がよく起こる場所、起きなくてもヒヤリとした、ハッとした場所には、何らかの要因がある可能性があります。“BikeMaps.org”は、今のところ北米中心ですが、多くの都市と提携を結んでおり、自転車の安全性やアクセシビリティに関するデータを提供すべく解析をしています。
自治体や警察にとっても、こうしたデータは貴重です。限られた道路修復予算に優先順位をつけ、効果的に使うことが可能になるでしょう。必ずしも工事が必要な場所ばかりとは限りません。例えば、バンクーバーには、よくクルマが進入してしまう自転車レーンがあります。
なぜその場所で間違いが多く起きるのか調べ、場合によっては規制を変えたり、新たな注意看板を立てるといったことで安全性が高められるかも知れません。ドライバーの注意が散漫になりやすいとか、死角になるとか、背景に紛れるとか、見落としやすいなど、原因によってはすぐに対策できる場合もあるに違いありません。
“BikeMaps.org”は、対象を40か国に拡大し、各国語に翻訳され、徐々に事故やニアミス、危険情報、あるいは市民の要望などのデータが蓄積されつつあります。このプロジェクトの有用性が理解されるようになり、公的な予算から150万ドルの資金も提供され、スタッフも増強できました。
まだ都市によってデータ件数には大きな違いがありますが、入力は世界中の都市で出来ます。ちなみに日本でも、現時点で数十件の投稿があります。まだ日本では広報も何もされていないと思いますが、目ざとい人がいるものです。そのうち知名度が上がり、共感する人が増えればデータの蓄積も進んでいくでしょう。
特定の場所の危険性、その原因を探るだけでなく、データが増えれば、危険を予測する統計モデルを構築することも出来ます。すでに、Nelson さんと彼女のチームは、都市のインフラや自転車事故の原因に関して、いくつかの論文をまとめ、報告しています。
例えば、クルマのドライバーは右折(日本では左折)で巻き込み事故を起こすことが推測されますが、実は最も危険な状況は左折(日本では右折)だと言います。対向車や信号、横断者、急いで渡ろうとする歩行者、死角から現れる歩行者、自転車など認知的に複雑な状況があるからです。
事故などのスボットを記録したデータだけでは不十分です。そこを通る交通量によっては、当然ながら事故の発生確率は変わってくることになります。そこで、各種の統計や、人気のサイクリングアプリ、“Strava”のデータなどから利用者数を想定するなど、統計学的な手法とGIS テクノロジーを組み合わせて解析しています。
ちなみに、この“BikeMaps.org”の知見を元に、新たなプロジェクト、“
WalkRollMap.org”も立ち上がりました。車イス利用者などを含めた歩行者版です。都市におけるバリアフリー化にも貢献します。これにも資金がつきました。行政だけでなく保険会社など、事故が減ることでメリットのある組織も存在するのでしょう。( ↑ 動画参照)
最近は、ビジネスでも、AIでもDXでも、データの重要性が強調されます。これがクルマならば、センサーやGPS、ドライブレコーダー等で自動的にデータが収集できるようになってきていますが、自転車の場合は現状そういうわけにはいきません。自転車の利用者がデータを入力していくアナログ的なやり方しかありません。
ただ、データの重要性は自転車においても変わらないでしょう。自分でリスクマップのデータから事故を未然に防ぐだけでなく、サイクリスト全体としてデータの蓄積、共有に協力することで、街での危険の除去や、安全なインフラの構築を促していける時代と言えるのかも知れません。
◇ 日々の雑感 ◇
H3ロケット打ち上げは中止になってしまいました。でも前日から島に渡り、打ち上げを見ようとする熱心なファンが少なくないことに驚きます。こういうケースもあるのでTVでもよさそうに思えますが、生で見る価値があるようです。