その一つが宗教でしょう。日本人は自分を無宗教とする人が多く、あまり関係はありません。初詣やバレンタイン、ハロウィンやクリスマスなど宗教由来の行事に参加しますが、強制されているわけではありません。そもそも仏教やキリスト教などごちゃ混ぜですし、単なる慣習、周囲の風潮や商業主義によるものでしょう。
しかし、宗教の敬虔な信徒は違います。キリスト教なら、その教えに従って生活し、日曜は礼拝に行って神に祈りを捧げます。イスラム教なら、例え日本にいても1日5回礼拝をしたり、ラマダンには昼間に飲食しなかったり、豚肉などを決して口にしなかったりします。
宗教の教えに基づいた生活様式の違いと言えるでしょう。中には、もっと頑なに自分たちの宗教の考え方を守って生活を制限している人たちもいます。その一つが、『アーミッシュ』と呼ばれる人たちです。アメリカ・ペンシルベニア州やカナダ・オンタリオ州などに住むキリスト教系の共同体に属する人たちです。
もともとはドイツ系の移民で、キリスト教の宗教集団ですが、移民当時の生活様式を保持し、農耕や牧畜によって自給自足生活を送る人たちです。全体では推定35万人ほどと言われています。私が初めてその存在を知ったのは、たまたま見た、ハリソン・フォード主演の映画「刑事ジョン・ブック 目撃者」でした。
実際に、このハリウッド映画で取り上げられたので、アメリカ国内も含め広く知られるようになったそうです。オハイオ州やインディアナ州、ペンシルベニア州などに普通に住んでいるわけですが、特に自分たちをアピールしたり、他者に対して攻撃的だったりするわけではないので、近くの人でないと知らなかったのでしょう。
その生活様式は独特です。移民してきた当時の生活ですから基本的に電気は使わず、当然ながらテレビもスマホもパソコンもクルマも持っていません。現代文明による技術を生活に導入することを拒否しています。18世紀のような服装で移動するのは馬車です。決まった色しか着ないので、軒先の洗濯物をみればすぐわかります。
厳しい戒律もあります。怒ったり、喧嘩をしたり、賛美歌以外の音楽を聴いたり、化粧をしたり、派手な服を着たり、快楽を得るような行動などは全て禁じられています。もし破れば奉仕活動が課せられ、それでも改善が見られなければアーミッシュから追放されます。
聖書とその関連以外の読書も禁止、楽器の所有や演奏も禁止、聖書の教えに反するので保険への加入も禁止、神の怒りである雷を避けるための避雷針を立てるのも禁止、離婚も禁止、男性の口髭も禁止(ただしあごひげ、頬ヒゲは可。)といった独特の決まりもあり、守らなければ追放です。
日本人どころか、アメリカに住む一般的なキリスト教徒でもなかなかマネの出来ない生活様式でしょう。アマゾンの奥地に住んでいるならともかく、アメリカの只中に住んでいるのに、周囲の人とは一線を画した生活を送っているのです。周囲と交流しないわけではありませんが、自分たちのスタイルを崩しません。
ただ、必ずしも宗教や共同体の価値観を絶対視するわけではありません。アーミッシュを選択するか否か決める機会があります。アーミッシュの子どもは、16歳になると一度親元を離れて俗世間で暮らす、ラムスプリンガという期間があり、その間はアーミッシュの掟から完全に解放されます。
子ども達は、その間に現代のアメリカ社会を体験し、酒・タバコ・ドラッグなどを含む、多くの快楽を経験することも出来ます。ですから、アーミッシュの外のアメリカの現代の生活を知らないわけではないのです。現代文明による技術や道具、文化、娯楽、その便利な生活も知っているわけです。
そして、18歳で成人となるまでにラムスプリンガの期間を終え、その際に、アーミッシュのコミュニティから離れるか、アーミッシュに戻るか選択できるのです。これはなかなか公平で穏当な制度と言えるでしょう。ただ、幼い時からの教育のせいもあるのでしょう。ほとんどの人がアーミッシュに戻ると言います。
YouTube や、TikTok、ゲームなどがないどころか、テレビもスマホもパソコンも無く、原則として電気も使わず、音楽も読書も楽しいことは何もないのです。これはアーミッシュの子供の頃から価値観を教えられてきた子どもでなければ考えられない、選択するとは思えない環境と言えるでしょう。
近代以前の技術しか原則使わないため、クルマも使いません。ただ、馬車で現代のアメリカの道路を走るわけで、法令の都合上、ウィンカーなどは取り付けるそうです。ウィンカーは蓄電池を使用し、その充電には普通の電気、いわゆる商用電源は使わず、風車、水車などによって蓄電池に充電した電気を利用するのだそうです。
アーミッシュは、現代文明を全て完全に否定しているわけではありません。自分たちのアイデンティティを喪失しないかどうか慎重に検討した上で、必要なものだけを導入しているわけです。その結果が、基本的に電気を使わず、農耕と牧畜による自給自足生活なのです。
さて、そんなアーミッシュについて、最近話題になっていることがあります。なんとアーミッシュが電動自転車、e-bike に乗り始めていると言うのです。ケータイもクルマも家電もネットも使わないアーミッシュが、馬車に替えて電動自転車を使っているというのですから、アーミッシュを知っている人は驚きます。
全てのアーミッシュを統合するような団体は存在しないので、それぞれの地域のコミュニティで何を受け入れるかを決定します。従来通り、馬車以外の乗り物を拒否するコミュニティもあるようですが、一部のコミュニティで電動自転車を受け入れ、乗り始めているのです。
もちろん、多くの地区で馬車がすぐなくなるわけではないでしょう。新たに電動自転車を受け入れても自分たちのアイディアを失わないとの判断のようです。もともと、ペダルのない自転車、キックスケーターのように蹴って進む自転車が一部で使われていたことも背景にあるのかも知れません。
充電に利用するのは旧来の水車や風車、そして太陽光発電による電気です。コミュニティの中に充電ステーションのような場所を設けて、共同で利用しています。普通の自転車ならまだしも、あのアーミッシュが電動自転車、e-bike を使っているというので一部で話題になったわけです。
なぜ電動自転車を受け入れたのかは、それぞれのコミュニティごとの判断です。ただ、何度も言いますが、テレビも携帯電話もパソコンもクルマも使わない、まさに18世紀のような生活です。その理由は、必ずしも移動の速さ、効率、ラク、便利、といったものではないはずです。
彼らは速いことより、遅いことに価値感を見いだします。速さや効率、利便性などを求めるのならば、そもそもこのような生活をしていないに違いありません。そんな彼らが電動自転車を受け入れたのは馬車と同じ、必要十分で、身の丈にあっていて、自分たちの生活や価値観を侵すものではないと判断したからなのでしょう。
クルマは原油を掘削して精製して輸送する必要があり、自分たちの手に負えるものではありません。一方、電動自転車ならば、蓄電池という多少新しい技術は使いますが、風力、水車、太陽光発電なら自分たちで維持できます。修理も可能です。そのあたりがアーミッシュに受け入れ可能で価値観にも合うとの判断なのでしょう。
現代文明は技術革新こそが本質です。それを否定するつもりはありません。生活を便利にするイノベーションは社会の進歩を促すものです。しかし、速さや効率性の向上を求めて開発しても、莫大なエネルギーを余計に使うわりに、そう大きな違いではない技術もあります。
新しい技術の採用によって消費するエネルギーが不必要に増大したり、環境負荷が大きくなったり、制御が難しくなったり、リスクが高まったりします。例えば、電動のクルマ、EVの開発もそうです。実際に使うのは平均して短い距離で、大きな車体に1人しか乗らず、渋滞でかえって時間がかかったりします。
現代文明にどっぷり浸かる私たちには、アーミッシュのような生活様式は、到底マネの出来るようなものではありません。ただ、地域や農場と家を行き来するくらいなら、自転車で十分とする部分には共感するものがあります。過剰なエネルギー消費をする現代文明を、少し離れて見つめ直す視座を提供してくれている気もします。
◇ 日々の雑感 ◇
震災に隠れがちですが自民党の裏金問題の捜査も続いています。企業団体献金制限の代償として政党助成金ができたのに、パーティー券で小分けにして相手がわからないよう受け入れ、それをキックバック、不記載してきたのですから、自民党はまずこの助成金を返上し当面自民党は受領しないと宣言してもいいのではないでしょうか。