日本でも、大企業や安定している職業を指向するといった従来の考え方が少しずつ変化しているのでしょう。政府もスタートアップ企業に対する支援を強化していますし、起業する若者を誘致しようという自治体も出てきています。起業環境を整備して優遇することにより、相対的な若年人口を呼び寄せる効果も期待できます。
もし成功する会社が出てくれば、地域の雇用創出にもなりますし、ゆくゆくは税収も期待できるでしょう。今は東京だけに集まるのではなく、地域の中核都市や、地価が安くて通信環境が整備されていれば地方であっても起業の場所に選ぶ人が増えてきているようです。
とは言っても、まだまだ日本は起業する人の割合が世界と比べて小さいのが現状です。圧倒的なアメリカや中国などとは比べものになりません。そもそも日本は廃業率も開業率も低いため古い会社が多く、創業して10年以内の企業価値評価額が10億ドル以上の未上場ベンチャー企業、ユニコーンも極端に少なくなっています。
アメリカでは優秀な人ほど就職せずに起業すると言われ、起業家が高く評価される土壌があります。いまや世界の時価総額ランクのトップ5に並ぶマイクロソフトもアップルもアルファベット(グーグル)もスタートアップから成長して創業者はみな億万長者です。若者が夢を抱いて起業を目指すのもわかります。
ただ、起業して成功するためにはアイディアだけでなく、いろいろなスキル、経営能力やマーケティング能力も必要でしょうし、もしくはそれらを持つ人材を集められなければなりません。一般的に資金は乏しいため、投資家に事業のスキームや強みをプレゼンし、資金を集める能力も欠かせないでしょう。
若さに任せて突っ走るのが悪いとは言いませんが、なかなか高いハードルとも言えます。アメリカとは言え、成功するスタートアップは百に一つとか千に三つなどと言われる世界です。でも、起業と言ってもIT企業やユニコーン、ナスダックへの上場を目指す人ばかりではありません。
アメリカ・メリーランド州はボルチモアに住む、Katherine O'Brien さんも最初は単なる「気まぐれ」に過ぎませんでした。彼女は、平日の9時から5時の会社に勤めていましたが、何か副業を始めたいと考えていました。しかし、別の会社をもう一つ探して勤めるという方法は気乗りしなかったのです。
出来れば、もっと自分の趣味にあった仕事、楽しいと思える仕事、自分のオリジナリティが活かせるような仕事をしたいと思ったのです。そして、いつものようにボルチモアのインナーハーバーを通勤で歩いていた時のことです。観光客にも人気の場所なので通勤客と併せてとても混雑する場所でした。
以前から、夏の暑い時にはこの道端でアイスクリームが買えたら、どんなにか素晴らしいだろうとは思っていたのです。でも、ある日、それなら自分でやればいいじゃないかと気づいたのです。実はキャサリンさん、「アイスクリーム愛」と表現するほどのアイスクリーム好き、スイーツ好きだったのです。
でも、アイスクリーム販売をするスタートアップ企業を立ち上げる気はさらさらありませんでした。当時2010年代も、日本だとキッチンカーと呼ばれるようなフードトラック、改造したバンなどで料理やコーヒーなどを販売する商売はありました。しかし、それにはある程度の開業資金が必要になります。
まとまった資金などありませんでしたし、投資して会社を作りたかったわけではありません。彼女がしたかったのは単なる副業です。もっと気軽でシンプルな仕事があればと思ったのですが、ネットなどで探しても、アイスクリームを売る副業は見つけられませんでした。でも、たまたま見かけた中小企業に目がとまりました。
それはカーゴバイクを改造してフードバイクを制作する会社でした。その会社にいろいろ問い合わせをするうちに、自分でカスタムのフードバイクをつくってアイスクリームを売るという方法が実行可能に思えたのです。キッチンカー、フードワゴン、フードトラックのようなクルマだと車両費や改造費がかさみます。
しかし、ベースがカーゴバイクならば車両費も改造代も格安です。初期投資と言えばそうですが、新しい自転車を一台買うのを、多少高い買い車種にするくらいの出費で済むと考えられるでしょう。「気まぐれ」に近かったのですが、自分のフードバイクを作ろうと思い立ったのです。
さすがに自転車だけでなく、他にも保管用の冷凍庫や材料の仕入れ代など必要なものも出てきましたが、併せて1万ドルもしない金額で準備が整いました。2014年の12月の寒い日、彼女のフードバイクが届いた日、路面が凍結していて屋内駐車場でしか乗れませんでしたが、この日のことは忘れられないと言います。
単に副業を探していただけなのに、販売用の自転車を制作して自分でアイスクリームを仕入れて売るという、後から考えると突飛なアイディアだったわけですが、なんとなく出来る気がしたのです。少なくとも、
自分の愛するアイスクリームを仕事に出来るのです。
翌年の5月に商売を開始するまで、どんな製品を売るか、どんな場所で売るか、サプライヤーやレシピをどうするかなど、いろいろ検討するのも楽しい作業でした。実際に商売を始めるために、保険局の許可をとったり、業務用のキッチンを借りたり、パッケージを購入し、価格を決定し、ウェブサイトをつくるなども必要でした。
当初思いついたような、通勤客で混雑するインナーハーバーで平日に売るのは本業があって困難です。急いでいる通勤客に売れるかという懸念もありました。そこでやはりボルチモアのフェルズポイントという場所のファーマーズマーケットで売ることにしました。
ファーマーズマーケットというのは全米各地にあり、農家が自分でつくった農産物などを直接販売する市場です。日本で言う「朝市」とか「道の駅」「農産品直売所」のような場所です。問屋などを通さないので安くて新鮮で地域の人に人気があります。そこで売ることにしたのです。
結果は驚くべきものでした。土曜日の朝7時に販売開始したのですが、即完売したのです。売り上げは300ドルちょっとですが、世界の頂点に立ったような気がしたと振り返っています。その後は、企業や大学などのイベントに出店できるようになり、結婚式へのケータリングも始めました。
カーゴバイクなので、運べる量は限られますが、利点もあります。クルマが入れない場所にも入れます。例えば結婚式のパーティーの屋内の会場へそのまま乗り入れ出来ることもあります。パーティーが盛り上がるので喜ばれることもしばしばです。
それまでは、平日のフルタイムの仕事も続け、夏の土日だけのアイスクリーム販売でしたが、3年で資金も回収出来ました。十分な手応えを感じた彼女は2018年、アイスクリーム事業に全力で取り組むため、本業の仕事を辞めました。自分で売るだけでなく、卸売りやプライベートブランドの立ち上げにも踏み切ったのです。
もともと会社を立ち上げるつもりはなかったのですが、仕事が順調に回り始めたので、個人でアイスクリームを売る仕事から、材料を仕入れてレシピに沿って製造する小さなデザート製造会社に成長させました。規模は小さいですが、製品を卸売りするようにもなったのです。
自分で売っているだけでは収入も一定以上は伸びません。かと言って、従業員を雇って販売させるのはリスクも伴います。そこで卸売りをして、他の人に売ってもらうことにしたわけです。プライベート・ブランドとしてオリジナルの商品を卸売りすることにしました。
しかし、順調だった事業は突然暗転します。想定外のパンデミックにより、2020年から2022年までは非常に厳しい状態に陥りました。先も見えない状態でしたが、なんとかコロナが収束し、商売は復調しました。2年間失っていた収入をようやく得ることが出来ました。
コロナ禍を経て、プライベートブランドの展開や卸売りはやめました。イベントなどで自転車でアイスクリームを売るという、大好きな仕事に戻ることにしたのです。一方で、あらたに違う事業を展開することにしました。それは、彼女の自転車アイスクリーム販売ビジネスのやり方を教えるというものです。
誰でも出来そうですが、紆余曲折もありました。そして独自のノウハウが集積したので、それを
オンラインの講座として売ることにしたのです。キャサリンさんと同じようにビジネスを始めたいというニーズがあり、彼女が苦労して得たノウハウや教訓には相応の価値があることに気づいたわけです。
今や、それだけで月収2万ドルの事業に発展しています。クルマによる移動販売の商売と変わらないくらいのコミュニティに拡大させるのが目標です。事業としても順調に成長しており、2024年の半ばには、この2倍の収入になると見込んでいます。
最初は気まぐれの副業のつもりだったのに、結果として立派な事業になりました。こういう起業もあるわけです。方法としてカーゴバイクを使うことで始めやすく、リスクが小さかったのもポイントでしょう。自転車を使ったこのような起業、まだまだいろいろ考えられるのではないでしょうか。
◇ 日々の雑感 ◇
ドジャースの大谷翔平選手が177日ぶりの実戦となるオープン戦で初ホームランを打ちました。まだオープン戦とは言えこれだけ多くの人が注目し期待する中で見事に結果を出すのはさすがです。シーズン開幕が楽しみです。