では、どういう時に安全に守られていると感じるでしょうか。ヘルメットを着用している時という人もあるでしょう。ヘルメットで事故を起きないようにすることは出来ませんが、万一事故に遭った場合、頭部への衝撃を和らげてくれるという点で、安心感があると感じる人は少なくないと思います。
MTBでオフロードを走る人なら、ヒザあてとかプロテクターなどを装着する人も同様かも知れません。ライト類や反射板、その他夜間の被視認性を高めるグッズ類を使っている人は、そのことで相対的に安全性が高まる効果が期待できるわけで、一定の安心感を感じることもあるでしょう。
これが、特に北米のキリスト教徒のサイクリストの場合は少し事情が違うようです。教会へ行き、自分と自分の自転車が祝福されることで、守られているという感覚になると言います。実際に、北米の各地の教会では、自転車を祝福してもらうために大勢のサイクリストが集まります。
地域によって違いますが、主に夏のシーズンの前に、自転車を祝福する毎年恒例の儀式が行われています。儀式では牧師が祈りと聖書の一節の朗読、そして自転車に聖水を振りかけるといった内容が多いようです。儀式は一般的に宗教・宗派にかかわらず、無宗教の人でも参加できる場合が多いと言います。
実は、この自転車への祝福は1800年代から行われていました。それが1999年、ニューヨークの聖ヨハネ大聖堂で大規模な自転車への祝福が行われ、この儀式が人気となったことで、多くの地域で追随する動きが増えたと言われています。アメリカやカナダの各地、一部オーストラリアなどでも行われています。
日本でも、神社や寺に行き、自転車のお祓いや厄除けをする人もあるかも知れません。安全祈願の祈祷をお願いしたり、初詣の時に交通安全のお守りなどを購入する人もあるでしょう。それと似たようなものかとイメージしますが、必ずしもそうではないようです。
このあたりが私も含めた日本人にはわかりにくいところです。日本人のように、初詣やバレンタインデー、お盆にクリスマスというように、無宗教、あるいは信仰深くない人にとっての行事と、敬虔なキリスト教徒にとっての祝福の儀式の持つ意味は違います。
本当に信じている人にとって、神に祝福されているということは大きな安心感になるはずです。日本人にはピンと来ない部分がありますが、信仰の力というのは、そういうものなのだろうと思います。ご利益があればいいな、とか、日本人の、いわゆる神頼みというのとは少し違います。
アメリカの大統領選では、妊娠中絶の是非やLGBTQについてなどが毎回大きな争点になります。聖書に書かれていることを、その通りに信じ、教えを実践する敬虔な教徒にとって、妊娠中絶は絶対に許せないことでしょう。単なる意見の違いと容認するのでなく、中絶手術をする医師を脅迫したりなど過激な行動に出る人もいます。
アメリカ人の4割はダーウィンの進化論を信じていないと言います。学校で教えることに猛抗議する親もいます。私たちの先祖はアダムとイブだと信じているため、サルから進化したなんてとんでもない理論ということになります。進化論を本当に信じておらず、聖書が正しいと心から信じているわけです。
この21世紀の世の中、科学が進歩した社会で、しかも技術の最先端を行くアメリカやカナダで、信じられない気がしますが、それがキリスト教国ということなのでしょう。アメリカ大統領選の争点も、日本人の感覚では理解できないような部分から断絶しているわけです。
決して揶揄しているわけではありません。信仰というのは、そういうものなのでしょう。キリスト教以外にも世界には多くの例があります。イスラム原理主義者がジハード(聖戦)を唱え、来世での幸福を信じ何のためらいもなく自爆攻撃する人がいるのに驚きますが、これも信仰のなせる業なのでしょう。
考えてみれば、日本にだって、死をも恐れないため敵を震え上がらせた一向一揆とか、島原の乱といった例もあります。命を賭すことも出来るくらいの信仰を持ち、本当に信じて疑わない人もいるわけです。少し例えが過激になってしまったかも知れませんが、宗教や信仰について今の一般的な日本人が理解しがたい部分でしょう。
信仰を持っている人にとって、神の祝福を受けることは、大いなる安心感になるのだろうと思います。ヘルメットやプロテクターとは違う意味での守られている感があるに違いありません。そのような信仰心を持つサイクリストが祝福式に出るのは当然のことなのでしょう。
もちろん、だからと言って無敵になるわけではありません。危険な走行は避けるべきですし、交通法規も遵守して安全な走行をする必要があります。前年に亡くなったサイクリストの追悼が行われることもあります。でも、神に祝福され守られているという感覚は特別なことのようです。
この一年間、事故も無く無事に過ごせたことへの感謝もあるでしょう。祝福されているからこそ、こうして深刻な事故にも遭わずに生きていられると実感することもあると思います。そして、自転車に乗っていられる喜びを感じられるのでしょう。自転車に乗るのは被造物に優しく、戒律に従う生き方だと感じる信徒も多いようです。
キリスト教徒でもなく、特に何かの信仰をもつわけでもない私が、自転車への祝福を受けるよう呼びかけるわけではありません。ただ、謙虚に安全な走行を心がけ、無事に生きて自転車に乗れていることを感謝する日は、あってもいいのかも知れません。
◇ 日々の雑感 ◇
ついにドジャースがリーグ優勝、おめでとうございます。ワールドシリーズはヤンキースとの名門対決楽しみです。
Posted by cycleroad at 13:00│
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