.
.
.
.
.
例えば欧米人などは権利意識が強く、生活の身近な場面においても不当な扱いをされたと感じたり、自分の正当な権利が阻害されたと感じると抗議したり、堂々と主張したりするのを見ることがあります。日本人とは権利意識の違いを感じることがあります。
これは日本人がどちらかと言えば控えめで、わざわざ事を荒立てない、調和を重んじ爭いを避ける傾向があり、国民性の違いのようなものに由来するのかも知れません。権利を主張して対立するより、相手の顔を立てて爭いを避け、円満に解決するようなやり方を好む人が多いのも確かでしょう。
何事も訴訟で決着させようとするアメリカ的気質とは明らかに違うのは間違いないと思います。出来れば争いを避けて、裁判まで持ち込まずに和解したり、話し合いで無難に丸く治めるのが賢明なやり方であり、例え正しかったとしても、自分の立場や権利ばかり主張するのは大人げないと考える人も多いでしょう。
日本人の人権意識などと言うとさまざまな論点が出てきて大きな議論になってしまうので、ここでは自転車に乗る人の権利意識について考えてみたいと思います。ただ、自転車に関してだけに限定しても、欧米人と日本人の違いは小さくないように感じます。

海外の自転車関連のニュースなどを見ていると、抗議活動の報道をよく目にします。デモや抗議ライドなどのイベントが行われています。目的はいろいろですが、自転車インフラの不足に抗議するとか、自転車レーンをもっと安全なものにしろとか、もっと自転車利用者の安全を確保しろといったものが目につきます。
なかには、気候変動対策のためにクルマを優遇する交通政策を止めろと主張するものもあります。クルマの大気汚染による健康被害がヨーロッパでは深刻ですし、環境負荷が高く、自転車や歩行者などを交通事故で死傷させていることに対する抗議なども少なくありません。
欧米ではモータリゼーションの時代を経て、最近ではクルマの通行を優先するのではなく、人間の安全や安心な移動を優先すべきだという声が高まっています。都市の中心部へのクルマの乗り入れを制限したり、最高速度の制限を低くするなどの傾向も顕著です。
そうした傾向に反していたり、足りない場合、自治体の交通政策への抗議が起きています。交通事故でサイクリストや歩行者が死傷していることへの不満、自転車レーンの不足や、あっても物理的に安全でないレーンの高規格化を求める抗議活動なども行われています。

かたや日本では、そのような自転車利用者によるデモ、抗議ライドなどのイベントは、ほとんど聞いたことがありません。そもそも、自転車関係以外のデモにしても日本では限定的かつ小規模であり、欧米のような大規模なデモが起きることは、少なくとも近年は稀なことを思えば当たり前なのかも知れません。
デモや抗議イベントは起きないにしても、あまり自転車利用者の権利を主張する声が大きくないのは確かでしょう。欧米では、クルマ派よりも自転車派のほうが正義のように見られることも少なくありません。日本では、自転車利用者のマナーの悪さは糾弾されても、クルマの通行を制限しろというような論調にはなりません。
欧米のように、従来からのクルマ優先が当たり前ではなく、人間こそ優先すべきとの考え方がまだ主流ではないこともあるでしょう。環境に対する意識の高さから、気候変動対策として自転車をもっと活用することで、クルマの利用を減らさなければならないという主張が少ないことも違います。
自転車利用者の権利を主張する人が圧倒的に少ない背景には、やはり歴史的背景が大きいと思われます。つまり自転車を歩道走行させるような交通政策が半世紀も続いてきたことです。このため、日本では自転車といえばママチャリであり、歩道を走行するのが当たり前のようになってしまいました。( ↓ 動画参照)
道路も車道以外の部分は、全部歩道にして自転車を走らせるため、不必要に広い歩道がある一方で、車道に自転車の走行空間が乏しいのが日本の実情です。このため日本ではママチャリが自転車の大部分を占めるという世界から見ると特殊な市場になっています。
ママチャリはタイヤが太く、乗車姿勢もアップライトで足つき性がよいため、歩道を低速で走行するのに向いています。車体は重く、スピードは出ません。歩道で歩行者をよけながら走行するのに適した形に進化したわけです。現状の日本の道路事情に適しているわけで、確かに用途によっては便利でしょう。
しかし、本来の自転車は、もっと軽快に走ります。下手をすると、5キロの米袋4つぶん余計に積んでいるようなものですから、ママチャリが遅く、坂道がキツイのも当然です。ママチャリしか乗ったことがない人がスポーツバイクなどに初めて乗ると、その性能の差に驚くと思います。
多くの日本人は自転車の本来のポテンシャルを知りません。車道も通らず、家の近所や最寄り駅まで行くだけの手段となっています。これでは自転車の有用性もわからないでしょうし、もっと自転車を活用すべき、活用されていいはずという発想にもならないでしょう。

歩く延長にある乗り物にすぎず、クルマより自転車ともならないでしょう。海外で、抗議ライドに集まるようなサイクリスト、自転車利用者は少なく、自転車の走行空間をもっと広げたほうが、環境的にも健康的にも社会的にも有用と主張する人も少ないのは当然ということになります。
そう考えると、日本人が控えめだから、自転車の走行空間の整備を主張しないと言うより、やはり歴史的背景からくる日本独特の事情や、それがもたらした考え方の違いにあると言えそうです。ただ、少しずつではありますが、自転車のポテンシャルや有用性に対する認識も広がりつつあります。
もちろん、自転車利用者のマナーの悪さは問題ですし、それがルール無視の混沌とした通行状況につながっているのも間違いありません。そのような状態で自転車の通行空間、もっと権利をなどと言っても理解されず、主張する人の広がりに欠けるのも確かでしょう。
しかし、それは歴史的経緯から自転車の通行が歪められてきてしまった結果です。これを本来の姿にしていくのであれば、欧米で自転車利用者の権利を主張するライドイベントなどが多く行われていることへの理解や共感も広がるでしょう。デモまでは無理でも日本でも主張を理解する人が増えると思います。

欧米の、自転車通行環境の整った街へ行くとわかりますが、自転車は当たり前のように車道走行し、自転車レーンなどを通り、一定の秩序が出来ています。日本のように逆走するなど傍若無人な走行をするような人は、ほぼ見ません。そうでないと走りにくいですし、車両として走ることが当たり前に定着し習慣だからです。
日本でも、自転車の走行空間を整備し、車両として走行するようになれば、今のような無秩序で混沌とした通行状況は改善されるはずです。その実現には、自転車の走行空間の整備を求めていかねばなりません。そのためにはもっと、自転車のことが理解され、自転車の有効活用の意義が認識される必要があります。
欧米でも、まだまだ自転車の走行環境が貧弱な街では抗議が多いわけですが、日本でもそのような主張が増えていけば、環境が改善され、事故が減少し、安全面でも良くなっていくことが期待されます。なかなかニワトリと卵の面があって難しいですが、まずその必要性を理解する人が増えてほしいものです。
◇ 日々の雑感 ◇
石破総理の辞任表明を受けて、はや次の総裁候補やその先の連立政権の枠組みなどに焦点が移っています。
Posted by cycleroad at 13:00│
Comments(0)